頭陀袋090 令和元年12月号

今を気張らにゃ

平成八年三月一日、私は京都黄檗山萬福寺五雲居におりました。この日は宗内の僧侶育成のための春季講習会が実施中。その頃の私は二十数年のサラリーマン生活を続けておりました。勤務先のオーナーは裸一貫から身を起こし業界に確たる地位を築いた立志伝中の人でしたが惜しくも喜寿を前に急逝し、その後の引継ぎに混乱している時期でしたが、私自身がその環境になじめず、少し生き方の選択に迷っている最中、辿り着いたのが五雲居でした。
当日の五雲居は講習生の宿舎となっており、僧侶を目指す若者たち十人余りと押し入れから布団を出して雑魚寝するような状態で、私のような中年の受講者は他になく、辺りを見回すとご年配のお坊様が、ノートに何かをぎっしりと静かに書いておられました。 物静かな方だなあと思いながらおりましたら、ちょうど消灯の時間となり、素早く寝間着に着替えるのですが、なんと、このお坊様の下着を見て驚きました。昔、私のおばあさんが縫っていた、“こたつの下掛け”飛騨の刺し子のように細かく細かくあて布がしてあり、この方は普通の坊さんではないな。と直観したのです。

そして二日目、講習が終わって寮舎に帰り、思い切って和尚さんに聞いてみました。
「オッ様、毎日、何を書いておられるのですか?」
「やあ。気になりますかな?これはわたしの日課で、毎日あった事、見たこと感じたことを書き残しておるんじゃよ。あなたと会ったのも何かの御縁じゃね。どうしてここに来られたのかな?」
「はぁ、私は若い頃、ホワイトカラーに憧れまして、二十数年間、サラリーマンを続けてまいりました。がどうも最近、この道に疑問を持ちはじめまして。今回の講習も何かのヒントになればと考えまして。」
「そうですか。今日、ここであんた様に逢えたのも御縁というものですな。よろしければ私の歩んだ道を聞いてくれますかな?」
その和尚さんの話は続きます。
「私は、三重県のある田舎町の小さなお寺の息子に生まれまして、坊さんになりたい・寺の跡を継ぎたいなどと真剣に考えたこともなく、有名な学校を出たでもなく、成り行きで坊さんになりました。ある日、私にも赤紙が来まして戦地に行きました。私の部隊は激戦地。 第一陣に駆り出され、日本の敗戦が囁かれる中、私たちの部隊は敵陣と正面衝突。仲間が次々と倒れていく中、【ダーン】という音とともに私はひっくり返りました。敵の弾丸が私の頭のてっぺんをかすめていきました。 頬をつたって流れる血を拭いながらはっと気が付いた。
『私はまだ生きている。』
あと、一寸頭をあげていれば自分は生きてはいなかった。なんという巡り合わせなのか。なんという御縁なのか…。周辺を見ると、さっきまで共に戦っていた戦友たちは、みんな死体となって倒れている。私は戦友の死体の山を踏んで帰還した。私は坊さん。自分の命のある限り、共に戦って戦地に散った同胞のご供養をしなければならない。これが私の使命です。人間、一生の間に一度や二度はどうしょうもないことに突き当たるものです。 あんたはサラリーマン。いいじゃないですか。御縁を大切にしてください。」

「今を気張らにゃ。」

私が出会ったその和尚様は、黄檗宗布教師会会長、元教学部長、三重県別格地不動寺住職、堀木宗詮老師であります。
昨年六月、私は足掛け五十五年のサラリーマン生活を卒業させていただきました。
これは宗詮老師のお導き、御縁と御恩を忘れてはならんと、思うこの頃でございます。

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。