頭陀袋100 令和2年10月号

喫茶去~まあ、お茶でも飲んでゆきなさい~

私たちは「お茶でも飲みませんか?」と言われると、「一緒にコーヒーででも飲みませんか?」と、誘われる場合が多く気軽なお付き合いの言葉として受けとめます。
または自宅に来客があった時、「まあ、お茶でも飲んでやすんでください。」と言い、番茶を進める習慣があります。
お茶が中国より伝来した歴史は古く、聖徳太子の時代にすでに伝わっており、仏道を修行する僧侶が用いたようです。
お茶の栽培となりますと、お茶の種を栄西禅師が鎌倉時代に、中国から持ち帰り栂ノ尾の明恵上人に伝え、栂ノ尾に植えたのが最初と言われています。
お茶を紹介するために栄西禅師は喫茶養生記を著しております。
お茶の効用としては胸の熱を下げる。眠気を覚ます。渇きを癒やす。心身を元気にするなど。
またお茶には強心作用があり、お酒を飲んだ後、お茶を飲むと消化を良くしたり、お酒の酔いを醒ますのに役立つといわれて江戸時代平均寿命は五十才前後でしたが、茶人は七十歳過ぎまで生きる人が多かったと文献にもあります。
お茶と言いますと抹茶の大徳、煎茶の黄檗というような言葉もあります。
抹茶とは上質のお茶葉の若芽を摘み、乾燥して粉末にしたものです。室町時代後半より、抹茶は武家のあいだでもてはやされ、やがて千利休らによって茶道が確立してゆきます。利休の家系は代々大徳寺の僧侶に帰依したことから、抹茶の大徳といわれるようになりました。
片や、煎茶と言われるのは、いわゆる葉茶のことで江戸時代、黄檗僧(売茶翁)が現れ、京都の町をお茶を売り歩き、お茶をもてなしたことから庶民の間で気がるにお茶を飲むという事がなされるようになりました。はたごなどでは茶店が出来たりして、時代劇、助さん格さん、それにご隠居さんの三人が茶店で一休み、お団子にお茶なんてことになったのでしょう。京都、宇治はお茶の産地として江戸時代、将軍家お抱えの茶師も現れ、上林、竹田、辻利などが今に残っています。茶道はいわゆる仏道を習うということも言われ禅宗のしきたり作法を大いに取り入れております。また、黄檗山萬福寺は、全国千茶道連盟の本部が置かれ、また、売茶翁をお祀りする売茶堂があり、毎年全国煎茶道大会や、売茶忌が行われます。
こうして私たちは日本人の文化としてお茶の流れがあり、しかも佛教に深くかかわってきたことを思い、お茶にお菓子、との御縁を喜びたいと思うものであります。

頭陀袋第100号をむかえて 恩林寺住職:古田正彦

この度、恩林寺寺報「頭陀袋」は、ようやく百号を迎えることができました。
先代住職遷化の後、大本山萬福寺より住職を拝命し、平成十九年一月より、自坊で生活することになりました。先代は晩年病気がちで、お寺の管理もままならなかったようで、雨漏りの修理、唐紙の張り替え、屋根の補修など行いました。
さて、一区切りしましたので、これからどう活動すべきか?と考えていた時、黄檗宗布教師の服部祖承老師が発行されました『続 佛教を学ぶ』という本が目に留まりました。老師は小学校や中学校の先生をする傍ら、自坊を守り、さらに玉川大学教育学部を卒業され、臨済宗各派布教師、黄檗宗布教師をされた宗門の大先輩であります。
『続 佛教を学ぶ』の序文に林文照管長猊下の言葉があります。「一灯を掲げて二十年」かつて服部老師は私に「檀信徒に対し一か月一枚、一文を出版し配布することを始めた。」と言い、十枚ほど(十ヶ月分)をいただいたことがあるが、もうそれから二十年が経つのかと目を疑いました。云々。 私はその言葉を拝読し、この本が寺報『だるま』発刊二十年の記念特集号であることを知りました。なるほど、自坊の恩林寺は名もなきお寺、歴史も浅く無檀のお寺、ましてや自分は無学非才、服部老師の真似事ではないが半分の十年、いや、百号まで頑張ってみよう。と考え、昵懇にしていただいている、小林高子先生にそのことを話しましたところ、「それは結構なことですな。なんでも、続けるということは大変でしょうが頑張ってください。」と励まされました。
そこで、寺報の題名を何にしようか?と考えていたところ、そうだ、何も経験がない自分には、あちらこちらから資料を拝借して寄せ集めの新聞しかできないだろうから、なんでも入る「頭陀袋」にしよう!と思いつき、手作りの頭陀袋が歩き始めました。
第一号はわずか二十五部でした。幸い周りの方々から、御祈祷米が欲しい(これは観音米として)や、抹香臭くないほうが読みやすい(これはニューモラルを)と、少しずつ知恵をいただいて現在のようなスタイルが出来上が ました。また、正宗寺東堂の原田道一老師、小杉淑子様のご指導をいただき、また小森鳳雅親子のご協力により、少し大きめの字にしたり癒しのカットを挿入したりして現在は参百部近くまで配布先を伸ばすことができました。
最近は思わぬ方から、「うちにも『頭陀袋』を送ってもらえんかな。」「いつも読ませてもらっとるけど、ええこと書いてあるな。ありがとう、ありがとう。」というありがたい言葉をいただいており、これは途中でだらけることなどできないな等と気を引き締めているところでもあります。
周りを見ると大先輩和尚様方がご活躍中、まだまだ駆け出し小僧にすぎません。変わらぬご指導賜りますようお願い申し上げます。
最後になりましたが、小僧さんの僧談事コラム、小森鳳雅に何卒ご支援賜りますようお願い申し上げご挨拶といたします。

住職合掌

遷化【せんげ】

この世の教化を終え、他の世に教化を移す意味から高僧などが亡くなられる事。

自坊【じぼう】

住職が住まわせて頂いている寺の事。ここでは恩林寺のこと。

頭陀袋【ずだぶくろ】

僧侶が首からかけている何でも入る袋。
もともとは頭の上に乗せて感謝を示すものでもあった。

昵懇【じっこん】

親しい間柄のこと。

小僧として、今思うこと 恩林寺徒弟:小森鳳雅

飛騨三十三観音霊場というものをご存知でしょうか?私は幼い頃に両親に連れられ、様々な寺院を巡礼させて頂きました。まだ物心つかない頃から仏様とのご縁を頂いてきたのです。
その飛騨三十三観音霊場の第十八番に「恩林寺」というお寺がありました。時は経ち、私は図書館で「良寛さん」の本を手にします。良寛さんは江戸時代の僧侶です。良寛和尚の生き様は、当時の私のなりたい姿、そのものでした。こんな風に生きたいと思いました。そして私は僧侶を目指そうと強く思うようになりました。
小学六年生の夏休み自由研究にて恩林寺へお伺いした事があります。その研究テーマは「お坊さんになる方法」というもので、高山市にある各宗派の寺院を廻り、自分が将来なりたいお坊さんになるためにどのようにしたらいいの?というのをインタビューしてまとめました。
その時に恩林寺住職、古田正彦和尚とお会いしました。社会性も敬語もまだまだ未熟な私の話を最後まで聞いて下さり、分かりやすく優しく教えてくださいました。今でも鮮明に覚えています。その自由研究が最優秀賞を受賞すると、古田和尚は作品発表会に、わざわざ足を運んでくださいました。
その後も年賀状などでの交流を続けながら、和尚さんに何かと気にかけて頂きました。「うちでお坊さんになってみないか?」と和尚さんからお声をかけて頂きました。その頃の私は高校生で、社会人になってから一人で僧侶を目指そうとしていた為、物凄く有難い縁だということに嬉し泣きをしてしまったことも未だに覚えています。親身になって法衣や袈裟などの付け方や、いろんな戒事を約束しながら得度させて頂くことができました。
頭陀袋と共に今まで歩んできた道のり。私が小学生の頃に伺った時がちょうど1号を発行されて間もない時だったような気がします。お坊さんになる前も、修行僧になった後も、大変なことも楽しいことも多々ありましたが、なんとかここまでやってくる事が出来ました。そして何より、この100号まで続けたという「精進」や、目標をクリアする「根気」を、和尚さんから学びました。およそ八年、和尚さんの背中と頭陀袋を見ながら生きてきました。立派な僧侶になるため、私の目指した「良寛さん」に近づくため、そして目標は大きく、身近にいる「和尚さん」を超えるため、これからも頑張っていきます。
あと二年間、京都で修行する予定です。精進と根気を持って日々生活していけたらと思っています。

小僧合掌

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。