黄檗宗とは?

黄檗宗は日本における仏教の宗派

臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つで、唐の僧・黄檗希運(臨済義玄の師)の名に由来します。
臨済宗、曹洞宗は徐々に日本風に姿を変えていきましたが、黄檗宗は現在においても当時の明朝風様式を伝えているお寺が多いのが特徴的です。
中国では臨済宗に含まれますが、中国的な法規が日本の臨済宗とは異なったため、独立した一宗派となりました。
本山は隠元隆琦の開いた、京都府宇治市の黄檗山萬福寺です。

『唯心の浄土 己身の弥陀』

禅宗の教え、即ち仏道の真理について端的に述べたのがこの言葉である。

この世で実在するのは心だけであり、総ての事物、現象は心の働きによって仮に現れたものであるとする「唯心」という考え方に基づけば、

「浄土」(汚れや迷いのない土地、佛の世界)も心の中にある。

即ち自分自身の身こそが阿弥陀仏なのである。

私たちの心の中には本来、阿弥陀様がおられる。

自分の心の中に極楽浄土を見いだすこと、そして心の中にいる阿弥陀様に気付くこと、それが禅宗の教えなのである。

(「己身」の「弥陀」)(黄檗宗青年僧の会発行「黄檗」より)

黄檗宗の歴史

中国の明朝末(日本の江戸時代)、福建省福州の黄檗山萬福寺で住職として大いに禅の教えを広めていた隠元隆琦禅師が、日本からの度々の招きに応じ、承応3年(1654)に多くの弟子や職人を伴って長崎に渡来した。
そして寛文元年(1661)、徳川家綱公より寺領10万坪を与えられ、中国の黄檗山萬福寺を模した明朝様式の禅寺が創建された。
伽藍建築や仏像造りには、先述の職人達が力を奮ったという。隠元隆琦禅師が「黄檗山萬福寺」と名付け、その初代住職となった。これが日本の黄檗宗の歴史の始まりである。
日本の各地の修行僧が大勢、隠元禅師に帰依し弟子となり教えを受けた。
その中には後水尾法皇や徳川家の将軍もおり、天皇家や武家にも黄檗宗の教えが広まっていった。そのご縁や恩恵もあり、黄檗宗は現在までの350年余りの歴史を数えられている。

黄檗宗の仏壇について

毎日のお勤めには欠かすことのできない仏壇ですが、恩林寺がある高山市の仏具屋さんでは、残念ながら黄檗式の掛け軸等を見かけることはありません。

黄檗宗の仏壇のご本尊はお釈迦様(観音様の地域もあります)で、両脇には左側に黄檗宗の開祖、隠元隆琦禅師を、右側に禅の初祖である達磨大師をお祀りしています。

他の宗派と同じように掛け軸をお祀りしますが、頂相ちんそうが斜めを向いた姿ではありません。黄檗宗のみ正面を向いているお姿をしています。黄檗宗の伝来とともにやってきた中国人絵師によって正面から描く技術が備わったためとされています。

頂相

「頂上の尊い相」という意味から、禅僧の肖像画または肖像彫刻のことを指します。