黄檗宗開祖、隠元隆琦

中国から来た渡来僧

隠元禅師

隠元隆琦は中国福建省福州府福清県の生まれ。中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容ひいんつうよう禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧。中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。

費隠通容

中国の明末清初の臨済宗天童派の禅僧。隠元隆琦の師として知られ、隠元を含め64人にも嗣法し多くの門弟を育てた。

先に渡日していた興福寺住持の逸然性融いつねんしょうゆうが、隠元を日本に招請しました。隠元への来日招請は四度に及び、隠元は二十人以上の弟子を率いて1654年に長崎へ来港しました。
隠元が入った興福寺には、隠元の高徳を慕う僧や学者たちが集まりました。
後に普門寺に晋山。黄檗宗総本山である萬福寺を開くまでの間、普門寺住持を務めました。
隠元の説法は僧だけでなく世俗の人々にも受け入れやすいもののようで、数千人も集まることがあったらしいです。その影響力を恐れた幕府は警戒し、隠元は寺からの外出禁止と集めて良い人数の限度(それでも200人)という制限を受けることになりました。そんな中でも後水尾上皇や各地から僧が集まり、普門寺は仏殿、鐘堂、石庭などが整備され栄えていきました。

逸然性融

中国明末に日本に渡来した僧で、隠元隆琦を日本に招聘し黄檗宗の発展に尽くした。

黄檗山萬福寺

隠元は、4代将軍の家綱と会見し、山城国宇治郡大和田に寺地を賜りました。
翌年には新寺を開創し、旧を忘れないという想いから、母国の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付け、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修しました。

黄檗三壇戒会

三壇戒会の正式な呼称。当初は「黄檗宗大乗戒壇」と称された。
初壇は沙彌戒(三帰戒 五戒 八戒 沙彌十戒法)
次壇は比丘戒(二百五十戒法)
三壇は菩薩大戒(菩薩十重四十八軽戒法)

隠元は歴とした臨済宗を嗣法していたので、臨済正宗を名乗っていた。清規は当時の中国・明時代の臨済禅に倣っており、日本の臨済宗とは違っていました。その為に自ずから一派を形成する方向に向かったものとされています。
隠元の『黄檗清規』は、乱れを生じていた当時の禅宗各派の宗統・規矩の更正に大きな影響を与え、特に曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされた。後に、木庵性瑫が校閲し、高泉性敦が編集した。

萬福寺の住職の地位にあったのは僅か3年間。後席は弟子の木庵性瑫に移譲し松隠堂に退いた。
退隠後、隠元82歳の頃、後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡され、翌日に遺偈を認めて示寂。

国師号・大師号

1673年、後水尾法皇より「大光普照国師」
1722年、霊元上皇より「仏慈広鑑国師」
1772年、後桜町上皇より「径山首出国師」
1822年、光格上皇より「覚性円明国師」

1917年、大正天皇より「真空大師」
1972年、昭和天皇より「華光大師」
2022年、今上天皇より「厳統大師」

50年ごとの遠忌に皇室より諡号を賜わることが慣例となっております。

黄檗の三筆

能書家としても有名な隠元隆琦。
恩林寺開山祖である木庵性瑫と即非如一とともに「黄檗の三筆」と称されています。

能書

文字を書く技がうまいこと。そういう人。能筆。

名付け親は隠元さん

日本が世界に誇る発明品の一つに『寒天』があります。
美濃屋太郎左衛門が心太料理の残りが捨てられているのを見つけた。
厳寒のために氷っていき、いつの間にか乾物に変わっていた。美濃屋は試しにその乾物を煮溶かして見たところ、また元の状態に戻ったことから、工夫を加え寒天を発明したとされます。
後に隠元さんがこれを試食されたところ、「佛家の食用として清浄これに優るものなし」と言われ、「寒天」と名付けられたといいます。

隠元が齎した「煎茶道」

茶は、臨済宗の開祖 栄西が中国からもたらし、日本に広がりました。しかしそれらは、 磚茶や 挽茶と呼ばれる茶葉を粉末にし、湯に溶かして飲む方法で、主に権力者や有力者など限られた人々のものでした。

茶道と言われると一般的にイメージされるのは抹茶かと思います。
それとは異なり煎茶道とは、煎茶を使う茶道です。
隠元の時代に中国で生まれたもので、いわば当時の最先端だったと思われます。
現代でも聞き慣れなれない様々なお茶が販売されていますが、江戸時代の人にとっては驚かれたかもしれません。

煎茶は緑茶の中の一つ

緑茶は、生のお茶の葉を発酵させずに製造したもので、煎茶、玉露、番茶、抹茶、焙じ茶など、さまざまなお茶をまとめた呼び名を指します。その中で現代の日本人が日常に飲んでいる緑茶の代表が煎茶。

煎茶というと家庭で気軽に飲むものという感覚でしょう。『道』と言われてもピンとこないと思います。
黄檗山萬福寺には煎茶道の祖とされる売茶翁の像を安置する売茶堂があり、煎茶ゆかりの地である境内で、全国煎茶道大会と称して全国各地から約30もの煎茶道流派が参加し、お茶席が設けられます。

賣茶翁

煎茶の世界では有名な賣茶翁。この賣茶翁というのは実は名前ではなく、お茶を売る翁という意味の愛称といえば理解しやすいかもしれません。もともとは僧侶の月海さんが本名。本人も時には賣茶翁と記す事もあったそうです。
晩年、死期を感じた賣茶翁は売茶業を廃し、自分の茶道具も燃やしてしまうというのが、割りと有名な話として残っています。これは死後、茶道具が俗世に渡り売買されるようなことになれば、茶道具自身が悲しむとの思いであり、賣茶翁の道具に対する愛情の表れとされています。