頭陀袋142 令和6年4月号

沢庵禅師と柳生剣法

沢庵たくあん禅師という名前を聞いて思い起こされるのは沢庵漬け、大根の漬物ならだれでも知っている庶民の食べ物です。
しかし沢庵禅師とはどんな和尚であったかはあまり知られていません。
沢庵和尚は天正元年、但馬の国に生まれました。
当時は戦国時代末期、織田・豊臣・徳川と天下人は次々と変わり新しい世界を求めて最も躍動した時代ともいえます。

徳川の時代

その徳川の時代になりますと幕府は体制を確立するため、大名や寺社の統制を必要とし、禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっとを制定。
仏法を支配下に収めるべく、高僧を集めてそのブレーンを作ることに注力します。
しかし沢庵はその権力に対峙し、仏法の自立性、自主性を守り抜こうとします。
天皇が幕府の了解を得ずに、沢庵に紫衣しえ着用を許可したこと。
これを幕府が違法だとし沢庵を流罪にしました。
沢庵は皇室の度重なる要請を受けたにもかかわらず法嗣ほうし(跡継ぎ)を立てなかったとを考えれば、沢庵自身、仏法を権力から引き離したいという切なる願いであったといえるでしょう。
流罪生活から四年目、二代将軍秀忠公が亡くなり大赦たいしゃが行われ江戸へ帰ることとなります。
江戸では彼の人気は一段と高まり凱旋将軍を迎えるようであったといわれます。
しかし沢庵は何もなかったかのように堺の南宗寺に引きこもり、いつものように修業に余念がなかった。

柳生

沢庵禅師と幕府の剣術指南、柳生但馬守宗矩やぎゅうたじまのかみむねのりは同じ但馬の出身で昔からの懇意にしていた間柄。
しかし寛永十一年、但馬守らが無理やり三代将軍家光公に会わせました。
家光は仏法修業そのものにしか関心を示さない沢庵に大いに惚れ込みました。
老中らに命じて特別な地位を与え、十分な待遇をしようとしました。
しかし沢庵はいずれも断り、静かに修業の日々を過ごすことを望みます。
沢庵にしてみれば天下の将軍であっても所詮、仏法から見れば世事にあくせくする一人の男としか映らなかったのかもしれません。

不動智神妙禄

沢庵が柳生但馬守に与えたとされる『不動智神妙禄ふどうちしんみょうろく』は剣の極意書として後々まで伝えられておりますが、友である但馬守に対し沢庵の姿勢そのものを、繰り返し力説しているのは、自分が自分になりきる。自分に徹しきるにはどうすべきか。ということであり政治家として兵法家として、また一人の親としてどうあるべきかを親切丁寧に解説しております。

千手観音の具体例

殊に千手観音の具体例を挙げます。
千の手が自由に使えその機能を十分に発揮するためには、一つの手にこだわることなく千の手に残りなく心が通い、千の手を隙なく支配するところまでいかないといけないと。
少し難しくなりましたが、道を極めるには自分のことを知り尽くし、相手のことを知り尽くすことが大切。
部下が多い場合は隅から隅まで自身を見なければいけないし、部下一人一人を知らないといけない。
そうすれば、上手く部下を使うことが出来る。
それを伝えた親切書と言えます。
こうして沢庵和尚は自身の道をしっかりあるき続け、自分になりきる方法を伝え続けたのでした。

古田住職

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皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。