頭陀袋143 令和6年5月号

美濃(岐阜県)の名僧栄叡大師について

時は奈良時代、聖武天皇の時代にさかのぼります。
天皇は深く仏教に帰依し国を安定するためには仏教の教えを守り教理に基づいた政治を行おうと努めました。
わけても平城京には法隆寺、興福寺、薬師寺などのお寺を建て僧侶を育成しました。
しかし、本来の目的に沿わない僧侶や自身の名誉や生活の安定のために勝手に髪を剃り僧侶を名乗る者が出てくるようになりました。
これでは律令国家が成り立ちません。

興福寺の栄叡、大安寺の普照

天皇は興福寺の栄叡ようえい、大安寺の普照ふしょうに命じ唐の国より戒師を招聘するよう命じました。
勅命を受けた栄叡と普照は遣唐使船で唐の国へ出かけることとなります。
この時代季節風や航海術を熟知したものは少なく命がけで渡航を果たした二人は長安や洛陽で研鑽を積み九年の歳月を経て、鑑真和上がんじんわじょうにあうことができました。
二人は日本の現状、戒師の必要性を説き日本に渡る戒師を推薦してくれるように依頼します。
しかし誰も危険を覚悟で日本に行くという者はいませんでした。
そこで鑑真和上は自らの渡航を決意しますと、二十名余りの弟子たちが同行を申し出ます。
しかし、この計画を謀議するものも出てきて嘘の密告をされたことにより二人は投獄されてしまいました。
こうして一回目の計画は頓挫してしまいます。
その後、密かに準備を続けますが沿岸部でのトラブルなどによりついに五回目の渡航で暴風雨にあい、海南島へ漂流してしまいました。
この頃から栄叡の体調が崩れ始めついに端州たんしゅう、龍興寺において亡くなります。
栄叡四十歳ころといわれています。
鑑真和上を日本に招聘するという任務途中での死去は本人にとってはどんなにか残念であったことでしょう。

鑑真和上

この頃、和上は失明してしまいます。
こうした事件にあいながらも今度は日本から来た遣唐使、藤原清河らの帰国船に同乗することができ、ついに六度目の挑戦が実を結んだのでした。
和上は東大寺にのぼり戒壇院を開き、聖武天皇をはじめとするたくさんの人に戒を与え仏弟子としての心得を示しました。
その後、唐招提寺を建立し、日本仏教の礎を示しました。
和上は、建築、絵画、医学、行政、司法などにも通じており、大きな功績を残しました。

鑑真大和上

14歳で出家、洛陽・長安で修行を積みました。
渡日後10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごされ、天皇を始めとする多くの人々に授戒をされました。
東征伝絵巻とうせいでんえまきに渡航の様子が描かれています。

栄叡大師千二百五十年

平成四年日中友好文化協会の支援により、栄叡大師を里帰りさせたい。
という話が進み「栄叡大師千二百五十年」にあたり中国側より四体の尊像が贈られ岐阜県伊深、正眼寺、奈良、興福寺。唐招提寺、岐阜市真福寺に納められました。
栄叡大師は長い年月を経て鑑真和上との再会が実現できたのでした。

高山市丹生川町正宗寺東堂、原田道一老師のご遷化せんげ

老師様は永年僧職にあって、博学、行動派、幅広い活動家でありました。
また仏教詩人、坂村真民、あいだみつお、との交流がありまた、あらゆる方面に人脈があり、禅の布教のためならインド、アメリカに出かけたり、良寛さんに会いたいと良寛さんの里を訪ねたり、さらには鎌倉では円覚寺で座禅をされるなど、たいへんなご活躍でした。
私どもの寺報(頭陀袋)が仏具屋さんの店頭でお目に留まったのがきっかけで随分とお世話になりました。
また(座禅の会)朴の会にも参加させていただき、よい仲間を紹介いただきました。
「暖かくなったら岩手のお寺に行きたいなあ。」との約束は果たせませんでした。
三月二十日昼、自坊では涅槃会が勤まる時間、ロマンチスト原田老師は眠るようにご遷化されたと伺いました。
大夜たいや(お通夜)津送しんそう(本葬)は荘厳厳粛に営まれ、ご法縁を頂戴いたしました。

住職九拝

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。