頭陀袋046 平成28年4月号

縁起ということ

仏教がほかの宗教と異なるのは特に縁起ということを説いている点にあります。
仏様の教えに照らし合わせてこの人生をどうとらえ、いかにきりひらいていくべきか、そのための道しるべというべきものが仏教です。もともと仏教とは言わず仏法と言い習わしてきました。また、仏道とも言います。ついでながら信仰も仏教的には信心と申します。信心はただ上の空だけでは人生どこでつまずくかわかりません。

禅宗では脚下照顧(キャッカショウコ)と説きますが、自分の足元が肝心です。あしもとをよくみよ。見る、聴く、話す、判断して実行する。その根本を司るのは心です。お経の中に「縁起を見るものは法を見る。」とあります。縁起をしっかり見据えることによりお釈迦様の悟りにより近付くことができるのです。

縁起とは因縁生起を略した言葉です。人や物のあらゆる存在、出来事 (現象) は必ずそれを起こさせる何かが複雑にま じりあいかかわっているという考え方です。その基本的な道理の踏まえ方、物の見方を「縁起観」といいます。私という一人の人間が存在するということも、父母なくしてこの世に 生を受けることなど不可能です。ましてや、乳をのみ食物をとらなければ育つことはできません。知識や経験、これも授かりものです。おもえば今までにどれほどおおくの人達との出会いがあったことか。こうしてみると私という一人の人間の正体とは実は無数のご縁の集まりといえます。こうしてみると世の中すべては持ちつ、もたれつ、の関係であり、支え合っている結び目の否定は、ほかならぬ自分自身の否定にもつながります。

こうした目 には見えない多くの恩恵を自覚した先人たちは素晴らしい言葉を編み出しました。これがおかげさまという言葉です。私たちの日常会話でもよく使います。その意味は神佛からのご加護、人から受けた恩恵などです。もう一つは「もったいない」これも私たち日本人の味わい深い言葉です。物を粗末にしない。過分の事で畏れおおい。という気持ちです。

この二つの言葉に共通しているのは神仏に対する敬虔な気持ちと感謝の気持ちです。こうした気持ちは身近であった今は亡き人たち、遠い祖先にまで及びます。春、秋の彼岸やお盆 の行事など時代を超えて今に伝えられています。一口に御先祖様といいますが、実は遠い祖先と父母や祖父母がおぼえている範囲の先祖があります。普段、私たちが先祖と言っているのはほとんど後者のようです。

今から五年前、東日本大震災が起きました。おおくのひと達がなくなられ、大混乱の中痛ましくも無残な状況の中、被災者の方の中にはお墓や御位牌探しに心を砕く人たちの姿は国の内外を問わず深い感銘を与えました。しかし、その一方で現代社会の合理主義、インターネットの功罪、今、少し考えてみましょう。

先日、 和尚さんたちの集まりの中で、IT社会 に我々はだんだんついてゆけなくなったね。 という話題から、いやいや、最近は機械はだんだん進んだがその分みんなが白雉化して、恥ずかしい人間ばかりが増えてきたような気がするね。なんて話になりました。静かに考えてみたい問題だと思いました。

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。