貧者の一灯
釈尊が舎衛国にいらっしゃった時、その国に大変貧しくて身寄りのない一人の女性がいました。彼女は、深く釈尊に帰依しておりましたので、国中の人たちがそれぞれの立場において釈尊とその弟子たちに供養をしているのを見て自分も、何とかして釈尊に供養したいと考えました。
あるとき、一日中、休むことなく人々の慈悲にすがり何とかして一銭の(わずかの)お金を得ることができたのでそのお金をもって油を買おうと店に行きました。店の主人は、わずかのお金で油を買おうとする彼女をいぶかしく思い、そのわけを尋ねます。彼女は、そのわけを話すと主人は彼女を憐れむと同時に感動して、値段以上の油をくれたのです。
「これなら、どうやら1台の灯明を供養することができる。」彼女は喜んで灯明を作り、釈尊のおられる精舎に行き、たくさんの灯明の中に自分の供養する灯明をそっと置いてきたのです。
彼女のささげた灯明は風が吹いても消えることなく、一晩中、輝き続けました。夜が明けると他の灯明はすべて燃え尽きたり、消えたりしているのに、彼女の真心こもった一灯のみは依然として輝き、消そうとしても消すことができなかったというのです。
これは、「貧者の一灯」という大変有名なお話です。富める者が、財力にものを言わせて供える万灯よりも、貧しくても真心こめて供えた一灯が比較にならないほど尊いものであることをしめしています。これこそ真の「布施」であるといえましょう。生活にゆとりができたから。今ならお金もあるから。というのでは本当の布施にはなりません。
見返りを期待せず、相手のことを思いやる、真心こめて行うのが本当の布施というものなのでしょう。
天命とか運命というものがあるか、無いかというのはまことに難しい問題です。
科学的に証明できないから、そんなものはない、という見方もできるし、そう考える人もいるでしよう。
しかし、孔子はそうしたものはある。として「自分は五十にして天命を知った。」と、はっきり言っているのである。
孔子は昔の人が説き、実践した道というものを研究し、それを現代に生かし、また後世に伝えることを生涯の仕事としたが、それは自分の意志や考えでやっているのでなく、それを超えた偉大な力、すなわち、天命によってただやらされているのである。と、考えたわけです。
考えてみれば、お互い人間として生まれてきたこと、この日本に生まれてきたことも、自分の意志でできたことではない。それだけではない、大きな運命のめぐりあわせによって今があるのだと考えればいわばこれは天命であり、そこに、一つの安心感が沸き、少々のことでも動じない自分というものを自覚できるのではないか。
理屈では証明できない何かに早く気が付くべきでしょう。(腹をくくりなさい。)。
住職合掌