釈尊のおさとし
裕福な家の若い嫁であったキサーゴータミーは一人息子の男の子を幼くして亡くしました。
気が狂い、冷たくなった死骸を抱いて巷に出かけ「この子を生き返らせることができないか?子供の病を治すものがいないか?」と訪ねまわった。
この女性をどうすることもできず町の人たちは哀れげに見送るだけであった。
仏教信者がそれを見かねて彼女に「祇園精舎にお釈迦様がおられる。お釈迦様のもとに行くがよい。」と薦めた。
彼女は早速お釈迦様のもとへ子供を抱いていった。
お釈迦様は静かにその様子を見て、
彼女は町に出て芥子の実を求めた。
芥子の実は求めやすかったけれども、死人の出ていない家はどこにも求めることができなかった。
ついにお釈迦様の言われた芥子の実を得ることができず仏のもとに戻った。
彼女はお釈迦様の静かな姿に接し、初めてお釈迦様のお諭しを理解でき、我が子の躯を墓所に置きお釈迦様の元に帰ってきて弟子となった。
和尚の昭和、下岡本を語る
昔は富士神社の祭礼は九月十三日でした。
この時期は毎年、台風が心配で数日前からヤキモキしていました。
祭礼の行列で神輿が通られるとき、我が家に神様がおたちよりになるというので山から赤土をもってきて神様の通路を清めました。
かんかこかんは子供たちが年代順に回ってくるので半月前あたりから先輩の指導で稽古に通いました。
「はちがのおーくう。どじょじるくいにいっかんかあ。」
「すってんで。すってんで、そりゃデ、ほいデ、」
なんてセリフに合わせてたたきました。
鐘大将は清兵衛(屋号)のアン様で、市松模様の衣装を着て、でかい男がでかい鐘をボーンボーン。と叩くのには惚れ惚れしたものです。
神様の御旅所は真光寺山のてっぺんにありますが、ここへは例祭に一度も登った記憶がありません。
行列は、願正寺まで来るとひとやすみ、松の木に旗を立てかけて休息。
その晩は今の富士会館のところが舞台で青年団の田舎芝居や獅子舞が行われ、夜店が出て、綿菓子、かいがらに詰めたニッキ、だんべ笛にヨーヨーなど、今思えばかわいいものでした。
この頃だったかなあ、城山で高山パラダイスがあり親戚の兄ちゃんに連れて行ってもらいました。
このイベントで人気のニシキヘビが逃げ出し、桐生の白山神社の裏のどぶで捕まったとか。
のんきな時代でした。
坐禅の入り口
銀行で手続きを待っている時やお医者さんで次の番を待っている時、汽車に乗って次の停車駅までの時間、皆さんどうしていますか?
背筋を伸ばし、ゆっくり呼吸をする。
一、二、三、十まで数えてまた戻る(ゆっくり、ゆっくり)
こんなあわただしい世の中でも、意外と時間があるものです。
ゴータミーよ、この子が甦るためには、芥子の実がいる。
町に出て、四~五粒貰ってきなさい。
しかしその芥子の実は、まだ一度も死者の出たことの無い家から貰ってくるのだよ。