頭陀袋060 平成29年6月号

売茶翁の話

黄檗山萬福寺は中国風のお寺として有名ですが隠元禅師が煎茶・番茶の習慣を伝えられ庶民の間に普及したことはあまり知られていません。

隠元禅師に付き添い日本に渡った独湛禅師は黄檗山第四代を継がれるのですが独湛禅師は隠元禅師と同じ故郷、福建省の出身であり、福建省はお茶の産地としても知られています。独湛禅師の弟子、売茶翁について触れてみたいと思います。

売茶翁は肥前蓮池(佐賀県佐賀市)の生まれ、城主鍋島家の御典医、柴山氏の三男として生まれ、十一歳で肥前龍津寺化霖について得度します。十三歳で黄檗山萬福寺に入り独湛禅師に参じました。二十二歳で陸奥に行き雷山で苦行をしたのち故郷の肥前に帰ってきました。五十七歳の時、師匠がなくなると龍津寺を法弟、大潮に譲り京都に戻ります。六十一歳の時通仙亭を開き、自ら茶道具を担い、京の大通りに喫茶店のような簡易な席を設け、禅道と世俗の融解した話をしながら客をもてなし、人の在り方、人の世の生き方などを説いたといわれています。

相国寺の和尚はその内容を書き残したらと進めたのですが、「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心にあり、事跡には非ず、そも袈裟の仏徳を誇って世人の喜捨を煩わせるのはわしの持する志とは異なっておる。」と述べたという。

七十歳になり、十年に一度は故郷に帰るという約束を果たし、突然自ら還俗(坊さんを辞めて俗人に還る)。 自ら高氏を名乗り号を遊外としました。気が向かなければその日は店をしまう、というような気楽な生活でしたが貧苦の中、喫茶する人のために煎茶を売り歩く毎日でした。

八十一歳になった遊外は売茶業を廃業、愛用の茶道具すべてを燃やしてしまいました。(私の死後、この道具たちが後世の俗人たちにわたって辱められたら、道具たちも私を恨むだろう。だから、お前たちを火葬に付してやろう。)という思いであったようです。その後、揮毫(字を書く事)によって生計を立て、八十七歳で蓮華王院(三十三間堂)の南にある 幻々庵で息を引き取りました。

売茶翁を偲び 黄檗山萬福寺には売茶堂があり、煎茶に親しむ茶人によって守られております。

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。