人の話を聞くのが好きな恩林寺の小僧です。
和尚の法話は自身の勉強になる為、真剣に聞いています。
ですが学生の頃はというと、校長先生の話がどれだけ嫌だったか😅
居眠りしたり、他の友達と話してて怒られたりしていました。
今の僕には考えられません。
人の話を聞くのは大切なことだと思っています。
自分に持っていない視線を持っていたり、知らないことを話してくれたり。
後々役に立つような事ばかりが詰まっています。
禅宗では、「語録」というのはあまり残っていません。
先週お話したように「不立文字」という縛りがあるため、実践行(実際に修行する)で覚えていくのです。
今回は以前の続き、「直指人心 見性成仏」について話していこうかと思います。
直指人心
自分の本当の心に指を指してみなさい。
そうすれば見えてくるものがあると言われています。
本当の心とは何か?
仏教の解説本には「仏性・仏心」などと書かれています。
つまり、心の中の仏さんですね。
誰しも優しい心はきっとあります。
お互い思いやりを持ち合うことで成り立っている事が多くあります。
この優しい心は「仏性」(心の中の仏さん)が動いているのです。
文字に頼らなくてもその心を見てみれば分かると言われているのです。
例え話
無
無!?たったの一文字!?
犬には心の中に仏さんがいるのかという質問はかなり難しいですよね。
小僧は猿に似ています😁が、犬になった経験がありません…😲
私たちには分からないし、かといって主人に従順な犬はきっと優しいだろうし。
それを趙州和尚は、「無」という一文字で返答したのです。
この「無」は純粋に捉えてはいけません。
この文字は「有ることを超えた無」なのです…頭が混乱してきた🥴
今回はここまでとしておきます。(かなり難しい話なので)
要するに、仏性は皆持っており、それに気付いていないだけなのです。
見性成仏
悟った仏になりきってみなさいという意味です。
仏さまは何をして悟ったのか。
言い換えると悟る為に何をすれば良いのか、良いと思った行動をしなさいという意味なのです。
お釈迦さまは悟りを開く前、座禅をしていたと言われています。
だから禅宗では座禅をするのです。
仏様と同じ真似をして悟りに近づこうとしているのです。
真言宗や天台宗では「身口意」を大切にしています。
体と口(お経やご真言)と心の中の仏を一致させるのです。
目の前にいる仏さまと一体になる事で悟りを得ようとしています。
浄土真宗などは、念仏を唱えて阿弥陀様にお願いしています。
いくら他力本願と言っても自ら「南無阿弥陀仏」と唱えなければ阿弥陀様は振り向いてくれません。
禅宗なりの言い方で「見性成仏」と言いますが、他宗でも当てはまることは沢山あると思います。
南嶽磨甎 ~伝灯録~
南嶽懐譲禅師が、一人の修行者が熱心に坐禅をしているのを見かけ問答が始まります。
修行者は坐禅三昧に入って覚者になろうと言います。
南嶽和尚は庭に降りて甎をこすり始め「鏡を造る」というのです。
それを見た修行僧は「そんな事で鏡は作れない」と笑います。
「どれだけ坐禅しても仏にはならない」と南嶽和尚は一喝します。
坐禅は大切なことには違いありませんが、成仏は坐法にあるわけではありません。
見性成仏の一念にあるというお話です。
まとめ
「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」
文字ばかり頼らず、他の一面を見てみなさい。
すると心の中に仏さまがちゃんといるのが分かるでしょう。
その仏さまをちゃんと大切にして生きなさい。
お経の本には沢山のことが書かれています。
僧侶や仏教学者が出している本にも色々良いことが書かれています。
法話など人の話を聞くのも大切だと思います。
しかし、いくら読み聞きしても、自分に取り入れなければ意味が無いのです。
僕たちが生きているのは今日です。
今日という時間を使ってどれだけ行動を起こせるかが鍵となってくるのではないでしょうか?
僕は一日一善を心がけて行っています。
その分、一日三悪をしているような気もしますが…。
少しずつでも、良いと思ったことを行動に移していくと心の中の仏さんも元気になるのではないでしょうか?
小僧合掌
狗子に仏性有りや又無しや(犬に仏性があるのか無いのか?)