頭陀袋095 令和2年5月号

主人公

人は本当に自分自身、主人公でいるかどうか? 考えてみると極めて疑わしい。他人のちょっとした批判を気にして、その言葉に引っかかり、 何日も何日もこだわり続けている。
自分自身の主人公は他人になってしまい、本来の自己をどこかに置き忘れてしまっているのだ。
瑞巖和尚という坊さんは、毎日、自分自身に向かって、「おい。主人公。」と呼びかけ、自分自身で「はい。」と返事をし、自分の本当の自己をいつも覚まし続けていたという。
禅宗の無門関という本に次のような一節がある。
「惺惺着や、喏。他時異日、人の瞞を受くること莫れ、喏喏」
「はっきりと目を醒ましているか」「はい。」
「これから先も人に騙されないようにしなさい。」「はい、はい。」
人は真の主体性を持つことが何より大切だ。
社長は社長で、課長は課長で、店長は店長で、従業員は従業員で、私個人は私個人で、主人公しているだろうか。
今年は、世界を震撼させた疫病を前に私を失いかけていたのではなかったか。
私はどこにいるか? 頭?胸?肝?パチーン。と、警策が鳴る。

老松を見上げながら正宗寺の門をくぐる。

正宗寺玄関前の老松今日は、東堂様に問候(訪問)である。
飛騨の洞門(曹洞宗)この百年、次々と古仏を輩出された名門である。
玄関前の老松は高い梢の枝が思い切り雲まで伸びてゆこうという勢いだ。
雲は老松の梢の上を静かに流れてゆく。
「松老い雲閑かにして、曠然として自適す。」と臨済録にもある。
今、じっと老松の上の雲を仰ぐ。
人生にとってこの一瞬が一番いいように思われる。
何も心のわだかまるところはない。
すっかり空々寂々たる心もちだ。
歴代の古仏もこの松とともに生きてこられたのだろう。

  • 開山 格翁門越和尚
  • 住職 原田太石禅師
  • 東堂 原田道一禅師
古田住職

小僧さんの僧談事

昔に書かれた思想や宗教の本は、意味を理解することが難しいと言われています。
特にその中にある言葉、禅語に関しては人に伝えることができません。
なぜならば、その短い禅語が全てを教え伝えているからです。
今は様々な解説本が、現代語に訳されて出版されております。
どの本を見ても、意味は似ている様にもみえますが、深く読み解いていくと異なる事がわかります。
自分の素直な心で禅語と向き合ってみてはいかがでしょうか。
小僧合掌

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。