頭陀袋097 令和2年7月号

力士大波の変身

明治維新後、日本禅三派のうち最も打撃を受けたのは黄檗宗で、徳川幕府崩壊の後は大変な危機に見舞われた。
黄檗宗は幕府から多大な庇護を受けていたからである。
人物も拂底し時の救い主となったのは後の黄檗宗管長になった高津柏樹老師であった。
老師は、日本にこんな小さな男がいたのかと思われるほどの小男であった。白髪長鬢、童顔仙骨、明治の高僧中断然、一異彩を放つ禅師であった。
柏樹老漢、まだ大本山の管長にならぬずっと前、その壮年期、大本山萬福寺の役寮を勤めていたころの話。
本山使僧として四国の末寺廻りをしていたことがあるが、船の都合でしばらく伊予の国、波止浜の圓蔵寺に滞留していた。ちょうどその時、程遠からぬ今治に大坂角力陣幕一行がきて興行をしていた。
圓蔵寺の和尚の進めるままに柏樹和尚も見物に行った。陣幕は島津公のお抱えで関西に鳴らした大関だったのだ。
この一行が巡業の都合上波止浜に移り圓蔵寺を宿として、年越しをすることになった。
境内に土俵を作り、毎日早朝から火の出るような稽古をやるので住職の此山和尚はじめ、寺僧や近所の人は大喜びだったが、この一行中に大波という力士があって、抜群の体格と力量を持ちながら、どうも勝ち星が取れずいつも前頭のビリの方につけ出されていた。
ある時、酒盛りの席で大波贔屓の人が嘆じて言うのであった。
「大波はあの通りの図体で地力もありながら土俵度胸がないというか師匠や兄弟弟子筋の者に向かうとカラッキシ駄目だ。
本来なら三役は動かぬところなのに惜しいもんだ。」「本当だよ。」
相撲好きの住職が乗り出して「なんとかならんものかなあ…。どうでしょう、御使僧様。
自家の宝を持ち腐らせているというやつですな。
大波に大用現前の工夫をさせる善巧方便はないもんでしょうか。」 
禅坊さん、力士の上にも盛んに禅語を振り回し柏樹和尚を急き立てます。
「よろしい、私のところに大波を寄越して下さい。」
その夜、使僧の客席で柏樹和尚と大波とただ二人しばらく話していたが、翌日の土俵に仁王立ちになった大波は本当に不思議な力を現した。でるものでるもの皆、鎧袖一触、前頭筆頭、小結、関脇、コロリコロリと投げ飛ばされてしまった。御大陣幕、力士一同、住職此山和尚、大いに驚嘆して、「一体、使僧様からどんな奇法、妙術を授かっったのか?」大波はポツリ、ポツリと語ったところは次のようであった。
「御使僧様の言われるには、自身が、名の通り大波になる事じゃ。それはわけない事、今晩寝ずに本堂で一人座り込み盡天盡地これ大波。と、こう口の内で唱えて一心に自分が本当の大波になって山でも、島でもなんでも押し流してしまうことを考えてみよ。本当に大波になれるぞ。」
わしはこの教えの通りにやったのさ。
本堂の円柱にもたれて背筋を真っ直ぐにおったて、きちんと座ってな、盡天盡地これ大波と、おまじないを唱えながら一心に大波を考えたよ。
そのうちどうも眠くなってきたので、頭を引っぱ叩いたり腿をつねったりしたがひょいとした拍子に手が腰の煙草入れの緒締につけた鐚銭に触った。
わしはその時考えたね。
この鐚銭だって、天下の通宝じゃないか。
そういえば、俺みたいなケチな野郎だって確かに人間一人前。男、一匹じゃないか。
するとね、不思議よ。目の前に銭が現れて、その銭がだんだん増えてしまいにゃ本堂一面、銭の海になった。これはこれはと思ううちに銭の海に波がうねりだした。
大波が後から後から見渡す限り大海原のようになって本堂も、土俵も野も山もただ一面の大波だ。いや、何とも言えない豪快な気分だ。
そのうち一番鶏が鳴いてはっと我に返ると、もう波も銭も見えなくなっていた。
それから土俵に登るとどうだ、土俵一面が大波に見えるじゃないか。そうして、くる奴、くる奴大波にもまれてフラフラしやがる。
そいつを俺はとっては投げ、取っては投げたんだ。
これは禅の大きな力の一端が働いたのであろうか。

(昭和六十三年在家仏教より)

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。