意(こころ)を注ぐ
「意を注ぐ」というと、何か難しい言葉のように聞こえます。
しかしよくその字を見ると私たちが普段よく使っている文字、すなわち「注意」を読み下したものということが解ります。注意とは、ほかのことに気を取られないで集中することです。
「危険注意」「事故注意」などは普段よく目にする言葉です。人は子供のころから、「ここに注意」とか「もっと注意して見なさい」とか言われて育ってきました。注意する。というのは、これを実行するというのはなかなかおもうようにいきません。
中国の唐の時代、学僧で「道林」という方がおりました。杭州西湖の近くの山中にある大木の枝に鳥の巣のようなものを作り、そこに住んでいたので人々は鳥躁禅師と呼んでていました。ある日、詩人で名高い白楽天が杭州の長官に赴任してきて、道林禅師の名高いことを知り、教えを聞きたいと訪ねてきました。
「和尚様、仏教の大意を教えてください。」と、呼びかけます。和尚は次のように答えました。
諸悪莫作(しょあくまくさ)(もろもろの悪いことを慎み)
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)(もろもろの善をなして)
自浄其意(じじょうごい)(おのが心を清くせよ)
是諸仏教(ぜしょぶつきょう)(これが仏の教えです)
此の句は七佛通誡の偈というもので、釈尊出世の以前に出現した仏たちが共通して戒められていることです。白楽天はもっと難しい教えを期待していたのか、子供だましのような答えに腹を立て「和尚、そんなことは、三歳の子供でも知っていることでないですか。」と、声を荒げます。
和尚は言下に「その通り。しかし三歳の子供が知っていることでも八十の老人が実行できないではないか。仏教とは教えを実践することが大切なのだよ。」と、白楽天はこのことばに感じ入ってそののち道林和尚の教えを受けたといわれています。
ついうっかりの交通事故、ながら運転での失敗、だれしも心当たりがあるでしょう。仏教では聴聞する、真剣に教えを聞く、ということに重きを置きます。だれしもつい、うっかりという不注意を起こさないよう反省と、注意力を養いたいものです。
お盆の棚経
今年のお盆は一部、鳳雅禅士がお邪魔いたすと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
住職合掌