頭陀袋055 平成29年1月号

石の上にも三年

この言葉は日常生活の中でよく用いられる言葉です。
冷たい石の上でも三年も座れば温まるということから、たとえつらい事でも我慢強く頑張ればやがては報われる。という意味に使われます。(最近の子どもは我慢が足りない)とはよく言われることです。確かに子供に限らずわたしたちも我慢が足りないと思うことが多い毎日です。

日本の国は豊かになり、ほしいものは何でも手に入る。本当に良い時代になっております。昔のように、国全体が貧しく、ほしいものも手に入らない時代から大きく様変わりしました。大きな買い物でも分割払いで出来るようになり私たちの生活はますます便利なものになってきております。

しかしその一方でローン地獄とかカード地獄というような悲劇を生んでいるのも事実です。また、ほしいもの が簡単に手に入るから、容易に手に入るものが遅れたりするとイライラして他人に八つ当たりしたり自分でイジイジ悩んだりします。

社会全体が我慢が足りなくなっている、というのが日本の今日の状態ではないでしょうか。もともと「我慢」と いうのは仏教用語なのですがあまり良い意味には使われてきませんでした。釈尊のおられた当時、「我」があってこれを支配するのは自分であるという考えがありました。釈尊は、俺、己れ、と自己中心になるのを戒められました。佛教ではこのおごり高ぶる心を七漫途いい、その一つに我慢がある。それがガンバルとか、辛抱するというような前向きな言葉として用いられるようになりました。

世の中ほしいものすべて手には入りません。すべてが自分の思い通りにもなりません。我慢とは耐え忍ぶということです。大乗仏教の修行法には六波羅蜜というのがあってその一つに忍辱波羅蜜があります。

忍辱とは完全な忍耐のことで他人からそしられたり馬鹿にされてもこれに反撃することなく常に相手に対し愛情をもって接することを言います。

悟りを得るためには怒りを抑え、耐え忍ばねばなりません。
釈尊の弟子にアングリマールヤという方がおられました。この人は入門前は殺人鬼として畏れられていました。彼は入門間もないころ、托鉢に出かけますと、人々は彼に向かって、つばを吐きかけたり石や瓦を投げつけました。お布施などまるでなくいつもからの鉢のまま、血みどろになって精舎に帰ってきました。釈尊は「アングリマールヤよ。耐え忍ぶのだ。逃げてはならない。」と申されました。彼は釈尊の言葉に元気ずけられ迫害を受けながらも町を歩き修行を続けました。釈尊はどんな悪事を働いたものでも懺悔して仏弟子となれば必ず悟りが得られると考えておられたのです。アングリマールヤは釈尊の期待によく応えたのでした。世の中の真実は「一切は苦である」ということが解ります。この「四苦八苦」思い通りにならない苦しみを明快にあらわしています。

求めても得ることのない苦しみ、車がほしい、家がほしい、お金がほしい…あるいは目に見えないもの、もっとやせたい、愛情がほしい…さきほどのアングリマールヤも、もともとは熱心なバラモンの信者でした。ふとしたことから殺人鬼となり、百人の人を殺すことを目的とするようになったのでした。結局、自分本位になっていたのです。

日頃私たちは足るを知る、満足することを知ることをこころがけねばなりません。これからの私たちは正しい信仰に基ずいて一つの目的達成のために志を忘れず耐え忍んでいくことがたいせつではないでしょうか。

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。