依法不依人

依法不依人

お祭り男の恩林寺の小僧です。

先週の金曜と土曜に、高山祭がありました。
コロナ禍が終わった様なお祭り騒ぎの様に、全国各地から巨大なバスが集まっていました。
日本三大祭のうちの一つが地元にあるなんて変な感じがしています(笑)
14日金曜日は夜祭、夜になるにつれて歩行者が多くなっていきます。
外で仕事があり車を運転していましたが、あまりにも人の多さにイライラしてしまいました。
ルールを守らない観光客もいれば、他県ナンバーの車は割り込んでくる始末。
無法地帯のようなものだと感じました。
『旅の恥は掻き捨て』の様に自己の良心を見つめ直したいものです。

イライラする時

実は最近、よくイライラしている自分がいます。
朝のお経へ行く前に雨が降っているだけでもイライラ…😠
何かやらなきゃいけない事が増えると面倒で…😡
こんなネガティブな気持ちが増えている気がしてなりません。

こんな時、皆さんならどうしますか?
私は以前、同じような状況の時、古本屋さんにあった本に救われたことがあります。
心屋仁之助さんの「もうイライラしたくない」と思ったら読む本という本です。(題名が長い…)
困っている友達にあげたので、手元にはありませんが、何となく覚えている部分があります。

イライラする時はどういう時でしょうか?

それは、他人や他のもののせいにしている時ではないですか?
「確かに言われてみれば…」と納得する部分があると思います。
雨が降っていてイライラするのは天気のせいにしている自分がいるから。
迷惑運転の車にイライラするのはその相手のせいにしているから。
なぜ他物のせいにしてしまうのでしょう。

依法不依人えほうふえにん

釈迦は十大弟子の一人であり、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一と称せられた阿難尊者に説いた話があります。

釈迦

阿難尊者よ。
この世で自らを島とし自らを拠り所とし他人を拠り所にしてはならない。
法を島とし法を拠り所として他のものを拠り所としてはならない。

これは単純に訳すと『法に依って人に依らざれ』ということです。
釈迦の入滅後に頼るべきは己自身であり、釈迦の説いた法であり、それ以外にはないということ。
ここでの己自身とは様々な縁によって影響され翻弄される様な自己の事ではありません。
法によって常に不壊なることを目指す自己のことです。
そして法とは自己の外にはなく自身の生命の内にあるものだと説いたのです。

釈迦

仏教以外の教えには自己の外に絶対者を設定するが仏法に絶対者はない。
絶対者とは生命の法であり、それは自分自身の内にあるそのもの。

他人のせい

以前、他人のせいにすることについての記事を掲載しました。
他の人の悪は善よりも多く見てしまうものです。
自分は悪くないという考えが色眼鏡となり、他人を悪いように見えてしまうのです。
前の記事では「感謝をする」ことについて書きました。
しかし、迷惑運転をされて感謝などは出来るはずがありません。
むしろ危ない目に合わされているのはコチラなのですから。
せめて運が良かったと有難く思えるくらいでしょう。

感謝だけでなく…

誰かにイライラするというのは自分もどこかでイライラさせているということです。
自分は正しいと思った行動も、誰かには嫌なことに感じるということがあります。
まさに「ありがた迷惑」というようなものでしょうか。
自分が気付いていない所で相手を不快にさせてしまっているのであれば、誰かが私を不快にさせても仕方ないと思えます。
その逆も然りで、私がイライラしている時でも、イライラさせた本人は気付いていないかも。
そんな時は感謝だけではなく、教えて頂いた法に照らし合わせてみては如何でしょうか?

小僧さん

実際、世の中は嫌なことだらけですし、ムカつくことだらけです😡
自身の思いのままに行くような世の中であれば、私たちは幸せなのでしょうか?
おそらく無法となって生きていくことが出来ないでしょう。
イライラしたら、まずは自分を見つめてみませんか?
何故イライラしてしまうのか、その原因はきっと、自分の中にあるでしょう。

小僧合掌

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恩林寺の小僧さん
檀信徒の皆さんに『一休さん・小僧さん…』様々な愛称で呼ばれております、鳳雅禅士です。「一日一善」を心がけながら、日々精進していきます。感謝・合掌。