恙なく大阪に着かれますと、隠元老和尚はたいそう喜こばれ、その冬の修行期には修行僧たちの首席とされ、また老和尚に代って説法させられました。
明る年の二月に入ると、禅師は老和尚のお伴をされて、新しく日本に開創される黄檗山の基地を見て回るため、京都府宇治太和村に出かけられました。
寛文元年五月八日、黄檗山萬福寺が開創され、八月二十九日には老和尚が黄檗山に登られました。
翌年には広さ十一間(一間は一・八六六m)深さ十間の法堂の上棟式が挙げられ、范道生によって観音、韋駄天、伽藍、祖師、監斎等の像が造られました。
明けて寛文三年、祝国開堂の式が行なわれ、幕府から僧糧として四百石が贈られました。
禅師が老和尚をお助けして盡力されたことは言うまでもありません。
東西の両方丈が建ちますと、老和尚は東方丈へ、禅師は西方丈に住まわれました。
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