頭陀袋039 平成27年9月号

ああ、モンテンルパの夜は更けて

毎年、お盆の風物詩のように八月の十九日前後に「高山市内五十ヶ寺のうち約半分の浄土真宗以外のお寺で作る東山連合寺院による川施餓鬼が行われ、宮川べりに流れてゆく灯篭を送りながら、夏の終わりを感じます。

さて、このお盆の精霊おくりが終わりますと東山連合寺院の行事として、各、宗派の当番で当代一流の布教師さんをお招きして、各お寺をお借りして『連合布教』と銘打ってお話を聞いたものです。私の祖母はながいあいだ病床にありましたが、「必ず、ためになる話をされるはずだから、ぜひ聞きに行って来い。」と、私たちを促したものです。私はまだ中学生になったばかりでしたので訳も分からずその話を聞きに行ったのでした。

確か、八軒町の善光寺様が会場で、布教師さんは岩本為雄(いわもといゆう)という真言宗の和尚さんでした。岩本和尚さんは教縛師も務 められたかただそうで、落ち着いた中にもなかなか張りのあるお話をなさる方でこんな話をされたと記憶しております。

皆さんは渡辺はま子さんという歌手をご存知ですね。渡辺はま子さんは、戦前・戦中・戦後にかけて一世を風靡した方です。渡辺はま子さんは名前の通り横浜の出身で、師範学校の英語の先生をしていたこともあり、また武蔵野音楽学校(今の武蔵野音大)を卒業されており、戦前、忘れちゃいやよ。を歌い大ヒット、支那の夜、蘇州夜曲などの曲にも恵まれ、皇軍慰問芸術団に加わって中国各地を慰問されました。

あるとき、はま子さんの横浜の自宅に一通の手紙が届きました。これはフイリピンのモンテンルパにあるビリビット戦犯収容所の日本人囚人からで、 収容されている人たちは大戦中、多くのフイリッピン人が日本人から受けた多大な被害に対し、日本人は許しがたいというのでその半数近くが有罪となり、収容所に繋がれたままの状態だったのです。

昭和二十七年フイリッピンマニラ郊外のモンテンルパ刑務所の囚人、B級戦犯、死刑囚、代田元大尉:作詞、同じくB級戦犯死刑囚、伊藤元大尉:作曲、ああモンテンルパの夜は更けてでありました。はま子は、「自分も戦争に加担した人間である。」との責任感から香港経由で、フイリッピンに入国し、モンテンルパを訪問したのでした。この刑務所で作詞、作曲された『ああモンテンルパの夜は更けて』を歌いますと、皆が泣きながら聞いてくれました。

立ち合ったデユラン議員は私が責任を持つから(君が代)を歌ってもよい。と、許可してくれました。こうしたいきさつがあって、戦後十年近くが過ぎてキリノ大統領は、国の感謝の日に特赦をだし、収監された囚人すべてが釈放れたのでした。岩本和尚さんはまるで自分がその場所に立ち会ったように感きわまって、ああ、モンテンルパの夜は更けてを歌われますと、お説教をきいたひとたちがほとんど涙を流しながら聞き入っていました。 ああ、モンテンルパの夜は更けてつのる思いにやるせない遠い故郷をしのびつつ涙にくれるつきかげのやさしい母を夢に見る。

今にして思えば、あのすばらしいお説教は、、それぞれの戦争を体験した人たちに語りかけ、我が日本人の間違いを、現実の問題として語りかけていたのだと思いだされます。

戦後七十年、ふと、思いだしたお説教の一節を披露いたしました。

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。