黄檗僧 高泉性潡禅師 について
高泉禅師が黄檗山萬福寺の住職に就いたのは隠元禅師が亡くなられてからすでに二十年も経っておりました。
高泉禅師
高泉禅師は書や詩文に長じ、世の中では黄檗文化が再び開いたとまで言われました。
丁度この頃、萬福寺の山門前にあった総門を建て替えることとなります。
禅師はその総門の額字を書く事となりました。
弟子たちは一升もの墨をすり準備を整え、待機しております。
いくら書が得意な禅師でも一度で気に入るような字が書けないからです。
しかも傍らにいた高泉禅師の弟子である大髄和尚が「これでは第一義にかないません。」とばかりに書き上げたものを次々に破ってしまうので、仕方なしに書き直すものの大髄はなかなか気に入ってくれません。
高泉禅師は少し嫌気がさしておりました。
そのうち大髄和尚は厠へ行かれました。
「えーい。今だ。」禅師は今、一枚を一気に書きあげました。
そこへ戻ってきた大髄和尚はこれを見るなり「これはすばらしい。さすが禅師さま。これこそ黄檗山の門頭を飾ることができます。」
なんと高泉禅師はそれまでに八十四枚も書き直しておられたのでした。
この話はたちまち評判になり、
高泉といえば「第一義」。「第一義」といえば高泉禅師。
というほどになったのです。
萬福寺の総門
建て替えることとなった最初の総門は日本式建築の長屋門で山内、松陰堂の庫裏入り口の門として移築され現在も保存されております。
また、高泉禅師が建てられた総門は中国風の牌楼に似せた建築で「漢門」、別名「唐門」と
呼ばれここでしか見られません。
黄檗の和尚の中では「第一義門」として親しんでおります。
生立ち
高泉禅師は中国福建省に生まれました。
十三歳で中国黄檗山に入り、隠元禅師の弟子慧門について修行しています。
隠元禅師が渡日されるや日中の間を往来しました。
隠元禅師が亡くなると百日間の棺側を務めました。
黄檗山第四代獨湛禅師の引退に伴い、黄檗山第五代住職となっています。
この話は、その時代の出来事として伝わっております。
大髄和尚は美貌の尼僧、了然禅尼の二番目の弟で、木庵禅師の印可を得ました。
高泉禅師が黄檗山に晋山する時、侍者(御付きの僧)になっています。