頭陀袋054 平成28年12月号

道を修める

人間の心はか弱いものです。自分が何かをやりとげようと決意し、目標を定め、予定までもたてていて、いざ、その仕事をやりだすとなかなか思うようには進みません。いつの間にか、怠け心が出て「もう、いいか。」と断念してしまいます。最初の決意の通りにはなかなかうまくいかないものです。佛教ではこの怠け心のことを煩悩と呼んでいます。 煩悩とは「身心を患い悩ます心」の事です。それは、とらわれの心、ということができるでしょう。

う。とらわれの心、と言ってもいろいろなものがありますが、なかでも、もっとも大きなものは、 自分に対するとらわれです。ようするに[わが身か わいさ」というものであり、自己中心のものの考え方です。すべてが思うようにいかないのに自分中心にものを考えうまくいかないと腹を立てあれこれ理由をつけて他人のせいにしてしまいます。経典の中に自分よりいとおしいものをみつけることはできない。 他の人びとにあっても自己はこの上なくいとおしい。 と、言う言葉があります。この経文が示すように、たとえどんなに愛し合っている恋人であっても結局、自分以上に愛おしいものはないのです。だれしも一番かわいい のは我が身です。そしてその我が身かわいさはひとの持つ煩悩にあるのです。それなら身勝手な自分を変えるためには煩悩を取り除けばいいのですが、そう簡単にはゆきません。中には煩悩のある事すら気が付きません。釈尊は早くからこのことに気ずかれ、ひとびとに煩悩を捨てる様々な方法を教えられました。

ところで仏教はもともと[仏道]と呼ばれておりました。宗教としての仏教という言い方は実は明治時代になってからの呼称であってそれ以前は仏道という呼び方が普通でしたそれには[仏の道]「仏に至る道」という意味が込められています。それはぬぐい難い煩悩を取り去り悟りを得ようということです。その方法が[道」であり、釈尊はこの道、すなわち方法をおときになったのです。これは八正道と呼ばれております。「正精進」正しい見解、正しいものの見方をする。佛教の道理にかなった正しい見解に基づいて正しく努力することを言います。釈尊のお弟子に(ハンダカ)という方がありました。この人は(愚かなハンダカ)と呼ばれていました。 釈尊の言葉を何か月たっても覚えることができず、実の兄からも見放され、精舎の外で自分の愚かさを嘆き悲しんでおりました。そこへ通りかかった釈尊はその事情を察知し、ハンダカに一本のホウキを与え、これで精舎を掃除しなさい。と命ぜられました。ハンダカは毎日毎日、黙々と掃除を続けているうちにホウキはいつの間にか、すり切れてしまいました。ハンダカはこれにより形あるものには、いつかは必ずこわれてし
まうものであることを知りました。愚かなハンダカもこうした経験を積んで、ついにはさとりを得たといわれております。私たちは自らの分というものをよく知り、おごり高ぶることなく常に理想にむかってハンダカのように必要以上に構えることなく、焦らず、地道に努力しなければなりません。

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。