海の日

海の日
海の日

夏は海で泳ぎたい恩林寺の小僧です。

海無し県に住んでいると、海に憧れます。
浜辺で水浴びや海水浴、ボートやサーフィン。
たくさんのレジャーが詰まっていると思います。

遥かなる海の彼方から〜仏教と僧侶が紡いだ日本の精神史〜

遥か昔、インドからシルクロードを経て中国へ。
そして、広大な海を越えて日本へと伝わった仏教の歴史には、常に「海」が深く関わっています。
想像してみてください。
当時の船は、現代のような豪華客船とは似ても似つかない、ただの木製の小さな船。
そんな頼りない舟で、荒れ狂う大海原へと漕ぎ出す。
そこには、並々ならぬ覚悟が必要だったに違いありません。

「なんとしても日本へ仏教の真髄を伝えたい」「この教えを故郷へ持ち帰りたい」
そう願う、鋼のような精神力を持った僧侶たちがいたからこそ、私たちは今、この豊かな仏教文化を享受できているのです。
彼らの尊い犠牲と情熱に思いを馳せるとき、私たちは日本の仏教が単なる輸入文化ではなく、多くの人々の血と汗の結晶であることを実感します。

鑑真 失明してもなお、真の戒律を求めて日本へ

西暦688年(奈良時代)、中国揚州に生まれた鑑真和上。彼は、日本仏教史にその名を深く刻む「律宗」の開祖であり、奈良の名刹「唐招提寺」を開いた高僧として知られています。では、なぜ彼が遠く離れた日本を目指すことになったのでしょうか。

聖武天皇の勅命と栄叡・普照との出会い

当時の日本では、残念ながら自己保身のために僧侶の資格を持たない「偽僧」が横行。
その結果、仏教の秩序が乱れていました。
この状況を憂いた聖武天皇。
真の戒律を授けることのできる「戒師かいし」を中国から招くことを決意します。
この勅命を受け、岐阜県美濃出身の栄叡ようえい普照ふしょうという二人の僧侶が、命がけで中国へ。

そして、彼らは中国で鑑真と運命的な出会いを果たします。
栄叡たちの話を聞いた鑑真は、「真の仏教、そして真の戒律を日本へ伝えなければならない」と強く決意し、自ら日本への渡航を決心するに至るのです。

幾度となく立ちはだかる困難と不屈の精神

しかし、日本への道のりは想像を絶するほど困難でした。
鑑真は、他の20名ほどの僧侶たちと共に渡航を計画します。
しかし、残念ながら邪魔しようとする輩の密告により、計画は頓挫。
栄叡たちは投獄されてしまい、最初の挑戦は失敗に終わります。

しかし、鑑真は決して諦めませんでした。
彼はその後も、何度も渡航を計画し、出発を試みます。
ところが、強烈な嵐に遭遇して引き返さざるを得なかったり、船が座礁したり。
航海は常に難航を極めました。
そして、ついに5回目の渡航も、またもや嵐に遭遇し漂流。
結局、失敗に終わってしまいます。

遂には失明、それでも日本へ

度重なる苦難と疲労の果て、鑑真はついに失明してしまいます。
普通であれば、ここで諦めてもおかしくありません。
しかし、和上の日本へ仏教を伝えたいという強い思いは、いささかも揺らぎませんでした。
彼の心の中には、日本の人々を救済するという崇高な使命感が燃え続けていたのです。

そして、失明後もなお、彼は6回目の渡航に挑みます。
日本へ帰国する遣唐使船に乗り込むことに成功し、奇跡的に無事に日本の地を踏むことができたのでした。

「仏が見えている」-日本での偉大な功績-

日本に到着した後、弟子が失明した鑑真の手を引こうとすると、彼はそれを拒否。
和上は毅然として「私は見えている。仏が手を引いてくださっておる」と語り、まるで健常者のようにスタスタと歩いたと伝えられています。
このエピソードは、彼の信仰の深さと精神力の強さを象徴しています。

渡日後、鑑真は東大寺や唐招提寺で戒師として活動し、日本の仏教を正しい方向へと導くことに尽力しました。
彼がもたらした真の戒律は、当時の日本の仏教界に大きな影響を与えました。
そして、その後の発展に不可欠な礎を築いたのです。

隠元 鎖国の日本へ禅の真髄を伝える

次に紹介するのは、西暦1592年(安土桃山時代)に中国福州で生まれた隠元隆琦いんげんりゅうきです。
彼は、日本の「黄檗宗」の開祖であり、京都宇治に「萬福寺」を開いたことで知られています。
鑑真と同じく、彼もまた壮絶な航海を経て日本にたどり着きました。

鎖国下の日本と衰退する仏教

時は江戸時代、日本は厳重な「鎖国」の真っ只中にありました。
しかし、かつてのキリスト教ブームの影響もあり、長崎では廃寺が目立つ様に。
また日本全体で修行を大切にしない僧侶が増えているという問題が顕在化していました。

この状況を憂えた長崎の興福寺住職、逸然いつねんは、寺の再建復興を目指し、当時中国仏教界に多大な影響力を持っていた隠元を日本へ招く計画を立てます。
逸然は何度も手紙を中国へ送りましたが、隠元は当初、その誘いを固辞し続けました。
彼は中国の萬福寺の住職という重責を担っており、その場を離れるわけにはいかなかったのです。
何よりも、当時の隠元は63歳という高齢。
危険な渡航の現実を熟知しており、そのリスクを冒すことにためらいがあったのも当然でした。

弟子の死が隠元の決意を固める

そこで、隠元は代わりに弟子の龍渓りゅうけいを日本へ送ることを決めます。
ところが、その龍渓が乗った船が難破し、あえなく命を落としてしまうという悲劇が起こります。
この痛ましい出来事は、隠元の心に深い衝撃を与えました。
「やはり私が行かなければ世界は救われないのだ」と悟り、ついに自ら渡航を決意。
隠元は萬福寺の運営を他の弟子に任せ、覚悟を決めて船に乗り込みます。

嵐を乗り越え、長崎へ到着

船旅は決して楽なものではありませんでした。
激しい嵐が吹き荒れ、船は激しく揺さぶられます。
しかし、隠元は何とかその嵐を乗り越え、無事に長崎の地へと到着することに成功しました。

禅浄双修の教えと日本仏教への貢献

長崎から始まった隠元の布教活動は、瞬く間に日本全体へと広まりました。
特に彼がもたらした禅浄双修ぜんじょうそうしゅうの教えは、当時の日本仏教界に新鮮な風を吹き込み、その影響力は凄まじいものがありました。
彼の教えは、時の徳川家からも認められるほどになり、幕府の庇護を受けることになります。

やがて隠元は、黄檗宗の本山として、中国の萬福寺と同じ名前を持つ寺院を日本に建立。
それが、現在も京都宇治にある萬福寺です。
隠元はそこで晩年を過ごし、日本の仏教界に多大な功績を残してその生涯を閉じました。

豆知識-禅浄双修と隠元がもたらした食文化-

禅と浄土の融合-禅浄双修-

禅浄双修とは、その名の通り、禅宗浄土宗という二つの異なる仏教宗派の修行を組み合わせることを指します。
例えば、坐禅をしながら心に浄土を思い描いたり。
お経で念仏を唱えながら禅の修行に取り組んだりします。
この教えは、現在でも日本の仏教界に引き継がれており、多くの寺院で実践されています。

隠元が日本にもたらした食文化と木魚

隠元は、仏教の教えだけでなく、日本の生活文化にも大きな影響を与えました。
意外に思うかもしれませんが、私たちが日常的に食べている隠元豆やスイカ、たけのこ、そして蓮根などを日本に伝えたのは、実は隠元なのです。
彼の渡来が、日本の食卓をより豊かにしたと言えるでしょう。

さらに、現在ではどこのお寺にも必ずと言っていいほど置かれている仏具「木魚」を日本に持ち込んだのも隠元です。
禅浄双修の教えが広まったこともあり、浄土宗でも広く使われるようになったとか。
彼の功績は、日本の精神面だけでなく、具体的な生活文化にも深く根付いているのです。

受け継がれる「海を渡る仏教」の精神

鑑真と隠元。
彼らは異なる時代に生きましたが、共通して海を渡るという命がけの決断を下し、日本の仏教に計り知れない影響を与えました。
彼らの不屈の精神と、真の教えを伝えたいという純粋な情熱。
これが、今日の日本仏教の基盤を築いたと言っても過言ではありません。

私たちが普段何気なく目にしている寺院や仏像、あるいは食卓に並ぶ食材の裏側には、こうした偉大な僧侶たちの壮絶な物語が隠されています。
彼らの足跡を辿ること。
それは、日本の文化や精神性を深く理解することにも繋がるのではないでしょうか。

小僧さん

私たちの生きていない時代に多くの苦難や苦労があったからこそ、今の仏教が存在しています。本当に感謝しかないですよね。
現在は、動物だけでなく人が人を殺生するような事件まで起きています。
ニュースでも最近多いと感じています。
そんな時代だからこそ、もう一度仏教を見直してみるといいのかもしれません。
そして何より、現代の僧侶たちも、大師匠が苦しい経験をした事を把握し、それを超えるような精進をしていかねばなりません。
と思いながら海を見ている(泳ぎが不得意な)小僧でした。

小僧合掌🙏

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恩林寺の小僧さん
檀信徒の皆さんに『一休さん・小僧さん…』様々な愛称で呼ばれております、鳳雅禅士です。「一日一善」を心がけながら、日々精進していきます。感謝・合掌。