関東地方での黄檗宗の教線は日に日に拡がり、上野に萬徳山広済寺が潮音和尚によって建てられ、また江戸に紫雲山瑞聖寺が鉄牛和尚を住寺として迎えました。
寛文十一年四月、瑞聖寺の伽藍が竣工したのを機に、かねてから心にかけられておられた紫衣下賜へのお礼もかねて江戸へ旅立たれました。
五月九日、無事瑞聖寺に入られ、進山式を挙げられました。
参詣者は引きもきらず一日一万人といわれました。
また禅師が江戸に出てこられたというので、酒井雅楽頭を始め幕府の高官たちがお斎(ご馳走の宴)を設けて次々に禅師を邸に招ねかれました。この時、鉄牛和尚を首座に、潮音和尚を西堂に迎え瑞聖寺で坐禅会が催されました。
たまたま法弟の即非和尚が亡くなられた報せがもたらされました。
禅師はいたく悲しまれ位牌を設けて法要をいとなまれました。
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