寛文五年春、木庵禅師によって三壇戒会(当時、黄檗の独特な授戒の式)が開かれました。
これを機に甘露堂が東方丈の後方に創建され、禅堂の修覆、石畳を敷いた道路、二つの倉庫などが建てられました。
七月二十日、幕府から呼び出しありましたので、初めて江戸へ下られ、黄檗山住持になられたごあいさつを述べられました。途中浜松では法弟の独湛和尚を訪ねられ、江戸に着かれてからは天沢寺を宿泊所とされました。
禅師が江戸に出て来られたという評判がたちますと、多くの人たちが、一目でもよいから禅師にお会いしようと押しかけました。
江戸城に入られてから老中稲葉美濃守、将軍の生母桂晶院太夫人などに法語を書いて示されました。
九月二十八日、二度目の登城をすませ帰途に着かれました。小田原では鉄牛和尚にお会いになって、無事黄檗山に帰られました。
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