頭陀袋121 令和4年7月号

かんのんさま(続)

岩井戸の観音様「飛騨市古川町寺地」

昔から日本人は大きな石、大きな岩には神仏が宿るという考えがあったのではないかと思われます。飛騨の北端の笹ヶ洞には昔、向小島城というお城がありました。

このお城にはご守護の観音様をお祀りしておりましたがお城の滅亡とともに寺地の岩井戸に移され、岩井戸観音として、飛騨七観音の一つに数えられ、現在まで守り継がれてきました。

寺地の氏神様の側道を山頂に向かって二十分ほど登りますと頂上近くに高さ二十メートル幅四十メートルほどの巨岩があり、その岩に食い入るように観音堂があります。

このかんのんさまは、霊験あらたかなり。ということでいくつかの伝説があるようですが、お像は木彫りで二十センチ余り。

今から百六十年ほど前の天保年間、かんのんさまは乞食によって盗まれ、杉崎の野末の「清助さん」という人に米三升で売られたといいます。

清助さん宅では、かんのんさまのご加護というようなことが、時々起こりましたが、ある夜、清助さんに観音様のお告げがあり
「わしは岩井戸の観音であるが、明日、岩井戸に連れて行ってはくれまいか。」
と、いわれ、翌朝、かんのんさまをを背負って寺地へ向かうことにしました。その道中、下野の池ノ山までやってきました。

すると、反対側の道から登ってきた寺地の甚太郎、善七さんの二人に出会い、「昨晩、同じ夢を見たので、二人で観音様をお迎えに来たところです。」というのです。
寺地の二人は、清助さんから、お像を受け取り岩井戸にお帰りいただいたという話が残っています。

私は偶然ながら、この甚太郎さんの末裔という方とご縁があり「実は私の家にこの時の記録が残っておるはずですので、よかったら見てください。」と言われ、厚かましく自宅に伺いますと元禄、宝暦、延享、天保などの古文書が続々と出てきました。認識不足で大変申し訳なかったのですが、どれがその記録かわかりません。それにしても寺地の甚太郎さんはこの地区の名主さんだったのでは…と思います。

昔の人は几帳面に資料を残しておられます。とても私では解読できませんので、再度、少し心得のある人と一緒に伺いますので。と冷や汗たらたら逃げ帰ってきました。

今月の言葉

父母のご恩を忘れるべからず

山岡鉄舟

幼年時代を高山で過ごし、両親を失った鉄舟は生涯、両親への恩を語ったといわれています。
父の小野高福は、飛騨郡代として高山陣屋に赴任していたため、鉄舟は宗猷寺で禅を学んでいました。江戸城無血開城では重要な位置に居たと記録されています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUT US
アバター画像
古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。