頭陀袋103 令和3年1月号

馬祖道一の禅

先日、ふとパソコンで様々なサイトを閲覧していたら、鎌倉円覚寺の侍者日誌と題して『今日の言葉』という臨済宗円覚寺派の管長、横田南嶺老師の口演録が眼に止まりました。
私たち、禅宗に関わる者の一人として、大変有意義なお話なので、ここに紹介させていただきたいと思います。
弘法大師の言葉に、『仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し』というのがあります。
仏法は遠くにあるのではなく、心の中にある。という意味です。
しかし、その心が様々な煩悩や妄想、知識、分別に覆われてしまい、肝心な仏心や仏性なるものが現れていません。そこで塵を払い、埃を除くように煩悩や妄想を払いのけて、本来の清らかな仏心に目覚めようと説くのが解りやすい教えだと思います。
つまり、綺麗な鏡に塵や埃が積もってしまっているので、その塵や埃を払いましょうという意味です。
そうした教えに対し馬祖道一は、「その仏法を求めようとしている、まさにその心が丸ごと仏なのだ。」と示されたのでした。
これを「即心即佛」と言います。
そんな馬祖の教えは臨済の禅の元となっています。
駒沢大学の小川隆先生はさらにわかりやすく「即心即佛と言っても仏と等しき聖なる本質が心のどこかに潜んでいるというのではありません。
迷いの心を退けて悟りの心を顕現させるというのではありません。己が心であり、それこそが仏なのだ。その事実に気付いてみれば、いたるところ仏でないものはないのです。」と、禅思想史講義に示してくださっています。
これは勘違いされますと、私たちが仏ならば何をやってもいいのか。という問題になりかねません。これは「何をやってもいいのだ。」という自堕落な教えではありません。

馬祖禅師にしても純一に座禅修行をされていました。
そうして究め究めていった先に馬祖は南嶽禅師に出会って、気が付いたのでした。
「そうだ。煩悩だ、妄想だ、と言って取り除くことはないのだ。これらを含め丸ごと、この心が仏なのだ。」と。
これは素晴らしい目覚めです。
臨済禅師にしても同じです。
それこそ「業行純一」に究めて行って黄檗禅師に出逢って、この身も心も丸ごと仏法そのものだ。と気が付いたのでした。
最初から何もしないでのいいという訳ではありません。
自己を究めていった末の大肯定なのです。
それが真の救いとなったのです。

横田南嶺禅師

和歌山県新宮市生まれ。筑波大学を卒業後、京都建仁寺で修行ののち鎌倉円覚寺で修行、円覚寺僧堂師家を経て、現在臨済宗円覚寺派管長。京都花園大学学長。

馬祖道一禅師

中国唐代の禅僧、俗姓は馬、漢州什方縣の出身。
地元の羅漢寺で出家、益州の長松山等で修行ののち湖南省衡山に向かい、南嶽壊譲禅師の法を継ぎ、江西省開元寺に移り法を広めた。
のち、馬祖の法孫に百丈慧海、黄檗希運、関山慧玄が現れる。

和尚さん オススメの一冊
正宗寺東堂 原田道一著『いま、心身一如の時代に必要なこと』

正宗寺東堂 原田道一著『いま、心身一如の時代に必要なこと
十月末日、スマートレターが私の元につきました。早速開封しますと上のタイトルによる丹生川町北方の正宗寺東堂様(前住職様)の著書。
先日、老師様にお会いした時、「今度、本を発行したいので北海道の会社まで、資料を送ったところだ。」と申されておりましたが、こんなに早く上梓されるとは思いませんでした。
この本は老師様八十五歳の記念誌と伺っていましたので、とても楽しみにしておりました。

老師は永年、飛騨の地にあって、高校の教師、神岡町正眼寺、丹生川町の正宗寺の住職という法席に在りながら、インド、アメリカ、中国等を歴訪、道元禅師の法をお弘めになられました。この本を拝読いたしますと老師様の貴重な体験と、一本筋の通った教えが綴られており、現代の風潮を憂い、世相を直視した警告を与えていただける内容であります。貴重な施本を感謝申し上げます。

恩林寺住職 九拝

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。