お金という厄介者
お金というのは何とも厄介なものです。
お金は幸せも与えてくれますが、大きな不幸も招くからです。
親族間のもめごとが相続争いなどのお金に起因するケースは少なくありません。 親族同志で醜い骨肉の争いに発展するぐらいならいっそ、財産などないほうがまし、と言うものです。
たとえ争いごとにならなくても人間、持ちきれない大金を持つと、ろくなことはありません。放蕩に走るか、逆に守銭奴となって利殖に血道をあげるか。どちらにしてもそれで欲望が満たされることはありません。 そればかりか快楽は苦痛であると、仏陀は説いておられます。
快楽で得られる満足は、永続きせず、すぐに次の欲望を追い求めることになります。どこまでも満ち足りることなく、さらに次を求めてあがき続ける姿はまさに、無間(むけん)地獄(じごく)というものです。 お金は回遊魚のようなもので世の中をぐるぐると回っており、私たちの前を素通りしていきますが、気まぐれに時には滞留します。その幸運に恵まれた人は喜びますが、また、それが不幸の始まりとも言えます。 大金が入れば舞い上がり、よせばいいのに欲をかいてもっと、もっとと思うようになります。おかねは無いと困ります。しかし、必要以上に有っても幸せとは言えません。預金通帳とばかり、にらめっこしていては、この先、幸せとは言えませんね。
祇園精舎
祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)とは、京都のどの辺にあったのですか?少し難しい質問に会いました。
平家物語に出てくる祇園精舎は京都の舞妓さんのいる祇園とは少し違います。
それは今から二千数百年前、インドに在った大きな寺院で、これは梵語でジエタワナ、イハーラといいましてインド五大精舎の一つであります。祇園という言葉は、この寺を建てるにあたり、祇陀(ぎだ)太子(たいし)という方が木材を寄付し、給(ぎっ)孤独(こどく)長者(ちょうじゃ)が土地を寄付したので、祇樹(ぎじゅ)給(ぎっ)孤独(こどく)園(おん)精舎(しょうじゃ)と言い、略して祇園と申します。
その昔、須(しゅ)達(だつ)長者(ちょうじゃ)の志願に、祇陀(ぎだ)太子(たいし)が賛同され、たがいに莫大な資力を投じて、釈尊とその弟子たちのために建てた大寺院でしたが、唐の時代(西暦六二九)玄奘三蔵法師が天竺に渡った時は、すでに跡形もなくなっていたと伝えられています。
祇樹給孤独園という言葉は仏説阿弥陀経の冒頭にも出てきますね。
住職合掌