主人と貧乏神の話
先日、土蔵の中を掃除していたら三代前の和尚さんが読んでいた古い本が出てきました。
心を練る禅の極致、中原南天棒(明治の禅宗の有名な和尚さん)の話でこんな話がありました。少し読みづらいですが、お付き合いください。
禅宗の坊さんでなくてもなんだか思い当たるものがありますね。
先日、土蔵の中を掃除していたら三代前の和尚さんが読んでいた古い本が出てきました。
心を練る禅の極致、中原南天棒(明治の禅宗の有名な和尚さん)の話でこんな話がありました。少し読みづらいですが、お付き合いください。
禅宗の坊さんでなくてもなんだか思い当たるものがありますね。
禅は至極平凡であってなにも難しいものではない。と言うとまた怠惰の心が生じて、一生貧乏神と仲良しになってしまう。それでなくとも悟りたい悟りたいと悟りにばかり引っかかっている。悟ることもなかなかできない。できないのみならず、少し悟り掛かっている悟りもどこかに離れて行ってしまう。
第一、悟ろうなどと思うのがまちがっている。 公案(修行の宿題)にかじりついてがりがりの貧乏神を、知らずしらずの間に迎えておる。貧乏神が居る家 は長者には決してなれないように、公案にのみ執着していると一生、大事を得る事が出来なくなるのじゃ。しかし貧乏神はシツコイからなかなかゆかぬ
*主人公曰く「十月は神なし月と思いしに貧乏神はいつも離れぬ。」
*貧乏神曰く「朝寝坊と稼業嫌いの奢り好き、心安さに定宿とする。」
*主人公曰く「この月は他所にもゆきやれ、貧乏神とは一生沿うとは約束はせぬ。」
*貧乏曰く「今さら飽いた、いやじゃといわんすな。お前とならば二世も、三世も」
こんなのがある。よく味おうて今のうちにきっぱりと貧乏神と離縁せぬといかん。離縁したなら再びそんなものに見込まれないようにしたほうが良い。これは各々の心身に貧乏神のうかがう隙があるからじゃ。禅を学び修行するものは心身に隙のないようにせねば効果がない。