人生、意気に感ず
この句は中国唐の時代、魏徴(ぎちょう)という人の句だそうです。
この時代は三蔵法師が活躍した時代で唐の国が最も繁栄した時期に重なります。
魏徴は皇帝の信頼が厚く山東省の強敵を打ちに出かけたときその決意を表したものです。彼は楚の国の重臣でしたが楚が漢に滅ぼされたのち唐に再雇用された人です。自分を引き立ててくれた皇帝に損得、名誉を度外視してご恩に報いたい。と決意を表しております。
私たちの日常を振り返りますと、常に誰かの目を気にしたり周りの評価を気にしたりしながら生活しています。釈尊の十大弟子のひとり富楼那尊者は説法第一で、仲間ではブンナと呼ばれていました。釈尊在世の当時は仏教はガンジス川中流の地域で栄えていましたがブンナはもっと西方の僻地にまで布教活動をしたいと考え、釈尊と問答をします。
事実、ブンナは一年間に五百人の人々を帰依させたのち涅槃に入られたといわれております。
これは決して口先だけの説法でなく真実の信仰に裏打ちされた行動であれば自分の全人格、さらには命すら惜しむことなくものごとに対処できるものということを物語っているのです。
西域の人は気性が荒いというが、もし人々がブンナをあざけり、罵ったらどうするのか?
その時は私を、杖や石、手足で打たないだけいい人だと考えます。
それなら杖や手足でぶたれたらどうするのか?
その時は鞭で打たれないだけいい人たち、と考えます。
それでは鞭で打たれたらどうするのか?
その時は刀で傷付けられないだけ彼らはいい人だと考えます。
では刀であなたを殺そうとしたならどうするのか?
その時は刀で殺されないだけ彼らはいい人だと考えます。
ではあなたは彼らに殺されたらどうおもうのか?
人は苦悩のために自ら命を絶つものもいます。私が願わなくてもわざわざ、私の命を絶ってくれたのだ。と考えます。
ブンナよ。私はブンナにもう教えることはない。
そのような心であればきっと多くの信者を得ることができるであろう。