頭陀袋053 平成28年11月号

ご縁ということ

世間ではよく「縁起がいい」「縁起が悪い」と言いますがこの場合、モノの起こる(兆し)とか(前兆)途いうような意味に使われているようです。

たとえば、「今朝、ご飯の時に茶柱がたったよ。何かいいことがあるに違いない。」とか、「今日、試合に負けたのは家を出るとき右足から出たからかなあ。」と言ったものです。

人は誰でも幸せを願います。しかしすべての人が自分の思い通りの人生を歩めるわけではありません。思いがけずうれしいことに出あう場合もあれば、突然不幸に見舞われることもあります。そんなとき、『これも運命だから致し方ない』という人もあります。また、『これは私たちではどうしようもない大きな力が働いていて、自分がじたばたしても人生は変わらないのだ』という人もいるわけです。

それでは仏教でいう縁起の思想というのはこうしたわけのわからないものなのでしょうか。いや、決してそうではありません。「縁起」という言葉はもともと、インドの古い言葉が漢訳されたもので因縁、因縁生、あるいは因縁法ともいい、縁によって起こる。ということです。つまり、ある一定条件に よって起こる現象の起こり方、とでも訳しましょうか。釈尊は菩提樹の下で悟りを開かれましたがその悟りの内容はこの縁起の道理(法則)であったといわれております。私たちが悟りを求める、仏になることを目指すということは(縁起の道理)を知り、それにかなった生き方を求め、めざすということにほかなりません。申すまでもなく仏教は宗教ですから縁起の道理は単なる道理原則というわけでなく、実践的な宗教価値をもっています。私たちがこの世に生まれてきたのは父母がいてくれたおかげですし、祖先が居てくれたおかげです。命をつないでいるのは食べ物のおかげでこれにはおおくの命をいただいております。したがってどのような現象でもたくさんの命(ちから)をいただいているわけです。

これらのかかわりを考えるとき、おのずと(おか げさまで)という感謝の心、お互いを尊重し合う心が生まれてきます。どのような人もおたがいに助け合わねば生きてはいけません。それならみんなが助け合いましょう。 と言うことになります。歎異抄の言葉に一切の有情(命あるもの)は皆もて世世生生。父母兄弟なり。とあります。阿弥陀様の光明に照らされて自分自身の本当の姿が知らされたなら皆、平等である、とのお示しです。

わたしたちの苦しみの原因は、 まず、自分さえよければ…という勝手な考えによるものです。どのような人でも他のものとのかかわりや調和において成立しているのですから私だけがおもいのままに行動したのでは多くの人に迷惑になります。

佛教では如実知見と言いますが、あるがままに真実を見る。ということを薦めています。どんなことも縁によって生ず。(ご縁によっていかされている。これらを認識する。) 真実の道理を知ることによって新しい展開があるのではないでしょうか?

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。