予言・預言・記別・授記
私たち生き物はすべて未来や将来の事柄を あらかじめ予見、予知する能力が備わっています。明日の天気や次に起きそうなことなど常識的な範囲のことを予知するならば別に驚きませんね。でも人の死を予見したり、地震、災害を予知する能力があるとしたらすごい能力があると驚きませんか? 普通人では推測できない将来の出来事を予見予知し、それらが起きないうちに人に語ることを予言(預言)といいます。
今はいろいろな機械を酷使して災害などを予見 予知し、予報として警戒を促す時代になりましたが、昔は人の予言(預言)に頼ったようです。予言者と預言者はほとんど同じ意味で仏教ではあまり用語の区別をしておりませんがユダヤ教、キリスト教、イスラム教では「神からの啓示を受けてそれを人々に伝える者」を予言者とし、ノストラダムのような予言者と区別をしております。
仏教では予言者自体、あまり問題にしておりません。予言などは仏教では必要ない。といっても過言ではありません。
しかし仏様にも予言はありました。ワカナラというインド語を訳すると記別,授記、となりますがこれは「あなたは未来世において、○ ●佛になるであろう。」と弟子に与えた仏の予言に他なりません。弟子に対し、未来の成仏を保障したのです。
仏教で予言があるとすれば成仏の保障と因果律だけでしょう。 超越神の意によって事柄の有無が左右されたり、特定の神の信者だけがよい目にあったりすることは認められておりません。神様といえども因果律にしたがわなければならないのです。因果の法則によりハルマゲドンの悪果(いやな記憶ですが)を起こさいように気をつけたいものです。
住職合掌