17.江戸へ下られる
寛文五年春、木庵禅師によって三壇戒会(当時、黄檗の独特な授戒の式)が開かれました。 これを機に甘露堂が東方丈の後方に創建され、禅堂の修覆、石畳を敷いた道路、二つの倉庫などが建てられました。 七月二十日、幕府から呼び出しあ...
寛文五年春、木庵禅師によって三壇戒会(当時、黄檗の独特な授戒の式)が開かれました。 これを機に甘露堂が東方丈の後方に創建され、禅堂の修覆、石畳を敷いた道路、二つの倉庫などが建てられました。 七月二十日、幕府から呼び出しあ...
今、コロナウイルスによる影響で対面での授業ができないのでオンライン授業やレポートによる課題の提出が求められています。 僕が通っている仏教学科は他の一般的か科目と比べて特殊なため昔の言葉を知らないとできないような課題が多々...
この年の八月二十三日、禅堂が建ちました。 たまたま即非和尚がこの日黄檗山に登って来られましたので、冬の修行期には木庵禅師と即非和尚が東西両堂の首座として五百人近くの修行僧の指導にあたられました。 また、十二月には老和尚に...
恙なく大阪に着かれますと、隠元老和尚はたいそう喜こばれ、その冬の修行期には修行僧たちの首席とされ、また老和尚に代って説法させられました。 明る年の二月に入ると、禅師は老和尚のお伴をされて、新しく日本に開創される黄檗山の基...
禅師と即非和尚とは殊に仲が良く、お互いに詩偈を作りあったり、舟で沖に出て語りあったり、福済寺と崇福寺を相互いに訪れあったりされました。 また、お二人で盛んに禅の教化にしたので、長崎の人たちは二人を仏教界の二甘露門と稱んで...
慧明寺に住持されてから一年余りたった頃、隠元老和尚から、 海を渡って日本に来て教化の手伝いをするように と親書が届けられました。禅師は、 と言って、四十五歳の夏七月九日海を渡って長崎に上陸、出迎えられて福済寺にお入りにな...
太平寺は滴たるばかりの翠の山々に囲まれていました。 禅師は座禅の余暇には田植えをされたり、野菜の種子を蒔かれたり、畚を負って土を運んだり、薪を採ったりされて、悟後の修行を積まれました。 隠元老和尚はあなたにどのような禅法...
ついで西堂という重い役に就かれた禅師は、 と問われ、そのあと、禅師と隠元老和尚は問答を交わされ、禅師が法を嗣ぐにふさわしい禅者であることを確りと認められました。 翌年の立春の日、禅師は老和尚に代って秉払説法を行なわれ、春...
かつて費隠老和尚のもとでお目にかかったことのある隠元老和尚が黄檗山で住持されていました。 禅師は黄檗山に登って足をとどめられました。 ある日、「燃えさかる焔のなかに身を横たえる、そうした場合についてお教え下さい」とお願い...
翌年には再び用庵和尚と西湖へ行脚に出かけられ、そこで若庵和尚に、また竜門で三宜和尚に、また保寿で石雨和尚に、と次々に相見(会う)されて禅問答を 交わされました。 たまたま費隠老和尚が金粟山に来ておられると聞かれ、馳けつけ...