可哀想も可愛いも『かわえぇ』と飛騨弁で話す恩林寺の小僧です
とあるインド出身の方とお話した時のことです。
私達が使う言葉の『かわいそう』というテーマになりました。
その会話とは?
えっ? 本当ですか?
そういった話を聞いたことはあったのですが、実際の話しだったとは…😥
それはとても悲しい話ですね😭
私は日本人の様なきれいは服ではないかもしれない。
かわいそうと言ってきた日本人より、お金も物も持っていないかもしれない。
だけど、かわいそうではありません。
彼の話では、『私は日本人ほどかわいそうではない』と言われました。
かわいそう とは?
ある日の友人同士の会話。
アレルギーで蟹が食べられないという友人に対して放った一言。
「こんな美味しいものを食べられないなんて可哀想な奴だなぁ」と。
それを聞いて腹が立つやら情けないやら悲しいやら…とても複雑な感情になりました。
なぜなら、その可哀想という言葉に軽蔑する気持ちが見て取れたからです。
私達はかわいそうという言葉に、相手を蔑んだ気持ちを入れてしまっているのです。
かわいそう=差別
現在でも『障害=かわいそう』という固定観念をお持ちの方も多いようです。
実際に少し手の不自由な友人が私に話してくれた言葉があります。
「普通の人として扱ってくれてありがとう」
その時の私は「急に何を言い出すのやら?阿呆になったか😆」と返しました。
しかし、その友人はこう返しました。
「障害がある人は可哀想な人で手伝ってる人は偉く尊いと考える人が多くてな…」
ヘレン・ケラーの言葉に「障害は不幸ではない、不便なだけ」とあります。
私はその不便さの手伝いをしただけなのに、周囲の人は不幸だと決めつけているというのです。
幸せの基準
幸せに感じる条件というアンケート。
「収入」・「健康」・「精神的なゆとり」との回答がとても多いんだとか。
金銭面、健康面、精神面が満たされることによって幸福感も高まると感じているようです。
では、仏様はどう教えているのでしょう?
自身の得ばかりを考える利己的な生き方からの脱却。
例えば、家族や友人が笑顔になることを考える生き方です。
もっと言えば、「譲る」という生き方、つまり「忘己利他」を実践することです。
忘己利他
伝教大師最澄さまの言葉に『己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり』という言葉があります。
自身のことよりも誰かのための行いをする。
これこそが仏様の行いだと説いています。
他にも、仏典の中にあるジャータカという物語集に出てきます。
お釈迦様が前世において、菩薩として悟りを求めて修行していたときの話のひとつ。
その中でも特に有名なものに、捨身飼虎の話があります。
子を抱え飢えた虎に我が身を施し命を救った王子こそがお釈迦様の前世だったという物語です。
私たちはどうしても自分中心に考えてしまいます。
自身の物差しで、幸せか不幸かを定めてしまいます。
しかし、幸せの基準は人それぞれ。
私だけの笑顔から、みんなの笑顔となれる日がくると良いですね。
小僧合掌
何故、日本人は私を見て「かわいそう」というのですか?
私はかわいそうな人ではありません。
しかし、そう言われてしまうのです。何故でしょう?