頭陀袋125 令和4年11月号

かんのんさま(続)

飛騨高山を治めた金森家の菩提寺として知られているのは初代、長近公の長子長則が京都で戦死したのでその菩提を弔うために位牌所とした雲龍寺、長近公の塔所とした素玄寺、二代目可重公の菩提を弔うために子息、重頼、重勝(左京)兄弟が開基となった宗猷寺、四代頼通、五代頼業を祀る大隆寺があります。

真龍山宗猷寺

宗猷寺は寛永年間、飛騨安国寺の再興に奔走していた前住妙心、南叟宗安なんそうそうあん禅師を招じ開山されました。
飛騨三十三観音第六番にあたる観音堂には不思議なご縁で下呂市舞台峠近くにあった大威徳寺の聖観世音菩薩、薬師如来、地蔵菩薩像が伝わっております。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』が話題となっておりますがこの時代、源頼朝は熱心な観音信者でありました。
側近、文覚上人は美濃、飛騨の国境近くに霊感を得て大威徳寺を開いたと伝えられています。
この寺は天台宗に属し十四世紀から十五世紀に最盛期を迎え、子院十二ケ寺を数える大寺でしたが永禄十二年、美濃苗木藩主遠山氏と、下呂竹原郷から戦国大名にのし上がった三木氏との合戦で多くの堂塔が焼失しました。
さらに天正十三年、天正の大地震で堂宇はほぼ壊滅しました。
子院の一つ多門坊の僧、慶俊は郡上白鳥の長滝寺に移り大威徳寺の伝記を表しましたがその副本が宗猷寺に残されています。
江戸末期、西国、秩父、坂東のそれぞれ三十三観音像を合祀し現在に至っております。
毎年十一月十八日はご縁日で手渡しでお像を拝める法要が営まれ、ご縁を頂く事ができます。

今月の言葉

仏の教えというものは生きているうちに聞くものじゃ。

一休禅師

聞く耳のあるうちに聞き、聞いて実践できるうちに実践することが大切なのだ。たった一度の命。今が大切なのだよ。と、禅師は説かれている。

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。