かんのんさま(続)
飛騨国分寺
ローカルな話で大変申し訳ないのですが、ここ何ヶ月か飛騨の観音さまに関する記事を掲載させていただきましたが、高山を中心とした飛騨の観音さまを語る時、必ず紹介すべきなのは飛騨三十三観音 第一番札所、飛騨国分寺 聖観世音菩薩です。
平成元年「在家仏教」第十五号(高山の仏像)の中にはこのように紹介されています。
「室町時代の荘重な朱塗りの本堂正面に本尊薬師如来(国重文)、東の脇間に聖観世音(国重文)、西の脇間に阿弥陀如来(県重文)が安置されている。いずれも藤原時代の古仏で、昼の暗い本堂に幽かな灯明に照らされているお姿は幽玄、荘重である。(中略)薄い連弁を組み合わせた古式の蓮台に立ち、豊かな宝髻に宝冠をのせ阿弥陀如来の化仏を頂く。伏し目がちの静かな相貌には無限の慈悲を含み、抑揚を抑えた柔らかな肉どりのさま、衣文類の穏やかな扱いなどいかにも藤原期彫刻の典雅な作風が拝せられる。云々」
平成元年「在家仏教」第十五号
安政時代の古文書に、この観音様は「往古は岡本村(上岡本)観音堂にお祀りされていたが、天正時代にこの寺へ移された」と書かれています。
しかし、この観音さまは昔、国分尼寺のご本尊であったとの言伝えがあります。
国分尼寺
幻の国分尼寺は国府にあった、あるいは古川説と議論がある中で、大正時代の軍人である押上森蔵は辻ヶ森(岡本町)説を唱えておりました。
昭和六十三年、辻ヶ森三社は建て替えとなり、発掘調査の結果、ほぼ完全な形で遺構が発掘され国分尼寺はこの場所であったと確定されました。長い歴史を生き抜いたかんのんさまは今は国分寺で私たちを見守り頂いております。
また、国分寺境内には昭和の名僧、山田無文老師が開眼された、悲母観音像などもお祀りされております。これは飛騨のヘレンケラーと言われた両手足のない中村久子女史の父母孝養のため、悲願建立されたものです。
実際に配布された頭陀袋の表紙には、飛騨国分寺様の観音様が印刷されておりますが、撮影禁止だったところを特別な許可を得て撮影・使用しております。画像拡散防止の為、ウェブ上では異なる画像を使用しております。
ご了承下さい。
住職合掌