時代に遅れをとっている恩林寺の小僧です。
大学生の小僧は、久しぶりに京都(大学)へ行ってきました。
まだまだコロナ禍のはずですが、京都駅は大勢の人で溢れていました。
中にはマスクを付けない人もいてビックリするほどでした。
後悔の無いよう
時代は変化していきます。
常なるものは無い、無常な世の中です。
変化し続けるものだからこそ、後悔の無いように生きていきたいと私は思っています。
後悔先に立たず
よく「後悔先に立たず」と聞きますが、小僧は大学生時代に一つ、後悔していることがあります。
それは京都での時間の使い方のことです。
大学4年間、僧堂1年間で、計5年間も京都に居ます。
(コロナウイルスが流行り、一時期は高山へ帰省していましたけど😅)
しかし、その中でちゃんと勉強したと思える日が少なく感じています。
萬福寺には仏教について教えて下さる和尚がたくさんいます。
それなのに、小僧が質問したことなどほとんどありませんでした。
昨年、高山に帰ってきて、やはりあの時間に沢山学んでおけば良かったなと後悔しています。
もし沢山勉強していれば…恩林寺として、そして小僧として…
もっと働けたのでは?もっとお役に立てたのでは?と思っています😭
過去は変えられない
しかし、後悔は過去のことです。
いつまで悩んでも結局は何も変わりません。
今の自分がいるのは前の自分がいるから。
その前の自分がいるのは更にその前の自分がいるからです。
そして、それを支えてくれた周囲の人がいるのです。
だからこそ私は、将来なりたい私になる為に今を頑張らなければならないと思っています。
そして過去を悔やむことなく、以前の自分の姿があるからこそ奮起できると感謝して、精進していきたいと思います。
懺悔
悔やんでいては成長できませんから反省が大切だと思います。
仏教では懺悔文という華厳経の一説を抜き出したものを仏の前で反省する方法があります。
懺悔とは「自分が犯した罪や過ちを告白して、悔い改める」という意味で、多くの宗教でも使われています。
懺悔文
正しくは懺悔偈といい、華厳経四十巻本の普賢行願品から採った偈文です。
仏教では、開経偈・三帰依文・四弘誓願などの様に日常の読経に広く用いられています。
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡
普賢行願品より
従身語意之所生 一切我今皆懺悔
過去に於いて自身が行ったあやまちは、深い貪り、怒り、愚かさに拠るものです。
それは、身体・口・心の行いから起こったものです。
私は今、その全てを仏様に告白し悔い改めます。
簡単にするとこんな感じの意味になります。
懺悔による功徳を求めてはいけません。
ただひたすらに、一心を無垢(清浄)にして懺悔し、経文を唱え反省しましょう。
小僧合掌
さて、以前ブログで紹介した卒業論文は1/10に提出し終わりました。
あとは試験があるだけですが、それ以降は京都へ行くことも少なくなります。
支えてくれた、親や友達、僧堂の仲間、そして受け入れてくれた京都という街に感謝して、残りの学生生活を送りたいと思っています。