分からないことが多過ぎる恩林寺の小僧です。
随分前の話なのですが、先輩から言われた言葉。
私自身は、分からないことがあると、それを知りたい、理解したい。
そんな気持ちが湧き上がってきます。
それは、新しい発見や成長のチャンスだと感じられるからです。
目次
分からないことがあると1️⃣萎縮
分からないことがあると萎縮してしまうことってありますよね?
それは、いくつかの心理的な要因が複雑に絡み合っているからかもしれません。
自我への執着(我執)
根本には自我への執着(我執)があると言えるでしょう。
「自分は賢くありたい」「無知だと思われたくない」「失敗したくない」
そんな自我意識が強く働くと、分からないという事実に直面した際に、自分のイメージが損なわれるような感覚を覚え、恐れや不安が生じやすくなります。
この恐れや不安が、萎縮という形で現れるのです。
比較する心
比較する心も影響していると考えられます。
周りの人が知っているように見えると、「自分だけが分かっていないのではないか」という劣等感が生じ、それが萎縮につながります。
仏教では、このような比較する心は、苦しみを生む原因の一つであるとされます。
他者との比較ではなく、ありのままの自分を受け入れることが大切だと教えられます。
完璧主義的な考え方
「完璧に理解してから行動しなければならない」という考えが強いと、少しでも分からないことがあると、先に進むことができなくなり、結果的に萎縮してしまうのです。
仏教では、不完全さを受け入れること、変化し続けることを理解することが重要視されます。
過去の経験による心の傷(トラウマ)
過去に分からないことを質問したり、新しいことに挑戦したりした際。
否定的な反応を受けたり、失敗して嫌な思いをしたりした経験があると、それが心の奥底に残り、再び同じような状況を避けるように働くことがあります。
仏教では、これらの心の働きを理解し、執着を手放す。
そして、ありのままの現実を受け入れること。
それこそが苦しみから解放されるための道と説かれています。
仏の教えは、私たちに「今ここ」に意識を向ける。
そして、あるがままの自分と現実を受け入れることの大切さを教えてくれます。
自分に分からないことがあることを否定するのではありません。
それもまた「今の自分」の一部として受け入れましょう。
焦らず、学び続けることが大切なのかもしれません。
分からないことがあると2️⃣イライラ
分からないことがあるとイライラしてしまうのは、とても人間らしい感情ですよね。
期待
「当然知っているはずだ」「すぐに理解できるはずだ」といった期待を持つことは、私たち人間によくある心の働きです。
しかし、仏教では、このような期待は、現実がその期待通りにならなかった場合に、失望や怒りといった苦しみを生み出す原因となると考えます。
分からないという現実は、この期待を裏切り、イライラという感情を引き起こしやすいのです。
執着
私たちは、自分の知識や能力に対して「こうあるべきだ」という強い執着を持っていることがあります。
「自分は賢い人間だ」「理解力があるはずだ」といった自己イメージへの執着が強いほど、分からないという事実に直面した際に、そのイメージが崩れるように感じ、強い不快感やイライラを覚えることがあります。
仏教では、このような自己への執着を手放すことが、苦しみから解放されるための重要な道筋とされています。
コントロール欲求
コントロール欲求もイライラの根源にあると考えられます。
自分の置かれている状況や情報を理解し、コントロールしたいという欲求を持っています。
分からないことがあると、このコントロール感を失い、無力感や焦りを感じやすくなります。
この感情が、イライラという形で現れることがあります。
仏教では、万物は常に変化し、私たちの思い通りにならないのが常であるという「諸行無常」の理を理解することが、コントロールを手放し、心の平静を保つ上で重要だと説かれます。
自我への誤解
私たちは、不変で独立した「私」という存在を強く意識しがちです。
分からないことがあると、この「私」の能力が否定されたように感じ、防衛的な感情としてイライラが生じることがあります。
仏教の「無我」の教えは、このような固定的な自我という概念は実在しないと説き、自己への執着から解放されることを目指します。
仏の教えは、私たちに感情に気づき、それを手放すことを促します。
イライラという感情が生じたときに、それを否定したり抑えつけたりするのではなく、「ああ、今私はイライラしているな」と客観的に観察することで、その感情に飲み込まれることなく、冷静に対処できるようになるでしょう。
未知への探究心
仏教では、未知への探究心は、苦からの解放と真理の探求という大きな流れの中で捉えることができます。
無明は苦の根源
仏教では、物事のありのままの姿(諸行無常、諸法無我、一切皆苦)を理解しない無明が、執着や煩悩を生み出し、苦しみの根本原因であると考えます。
未知への探究心は、この無知を克服し、真実を知ろうとする自然な心の働きと言えるでしょう。
固定観念からの解放
未知を探求する過程で、私たちはこれまで抱いていた固定観念や偏見に気づき、それらから解放される可能性があります。
これは、苦しみを生み出す歪んだ見方を正し、より自由な心の状態へと近づく道筋となります。
変化への受容
未知の世界に触れることは、常に変化し続ける現実を認識する助けとなります。
仏教の根本的な教えである「諸行無常」を理解し、変化を受け入れる柔軟性を養うことは、苦しみを手放す上で非常に重要です。
仏教的な探究心とは単なる知識欲や好奇心とは異なります。
それは、苦からの解放という明確な目的意識と、自己中心的な欲望に基づかないという点が重要。
エゴを満たすためだけの探求や、他者を傷つける可能性のある探求は、仏教の精神とは相容れません。

現代社会は情報が溢れて過ぎています。
そのため、何が分からないのかさえ分からなくなることがあります。
そこに身をおいている私。
まだまだ知らないことがたくさんあるだろうなと感じます。
未知の世界への探求心は、人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか。
小僧合掌🙏
分からないことは良いことだ!