お米好きの恩林寺の小僧です。
物価高騰が続く昨今、お米の価格高騰は私たち日本人にとって特に懸念材料ですね。
かつては当たり前のように食卓にあったお米が、贅沢品となりかねない…。
そんな状況に直面していることに、寂しさを感じずにはいられません。
「米」という漢字に込められた意味
幼い頃、私は両親から「米」という漢字は「八十八」と書く、と教わりました。
これは、お米を育てるのに八十八もの手間がかかることを意味します。
だからこそ一粒たりとも残してはいけない、と諭されました。
その教えを受けて以来、私はお茶碗に残ったお米の一粒まで大切にいただくようになりました。
現代では機械化が進み、かつてのような八十八もの手作業は簡略化されています。
しかし、水の管理や肥料の調整など、お米を育てる農家の方々の苦労は今も変わりません。
丹精込めて作られた一粒一粒に、私たちは感謝の気持ちを込めていただくべきでしょう。
命をいただく「いただきます」の心
お米に限らず、私たちはあらゆる食べ物を残さずいただくべきです。
肉や魚は殺生にあたるとして食を禁じる考えもあります。
しかし、私は植物もまた命あるものだと考えています。
野菜や果物も、一生懸命に生きています。
私たちは他の命をいただくことで、自身の命を繋いでいるのです。
食卓に並ぶまでの全ての過程に感謝の気持ちを込めるのが、「いただきます」という言葉です。
命を与えてくれたことへの感謝、食材を育ててくれた方への感謝、調理ができる環境や料理してくれた方への感謝、そして今、食事ができることへの感謝。
これら全ての気持ちを込めて「いただきます」と唱え、食事を始めるのです。
だからこそ、残さず食べることは当然の行いと言えるでしょう。
僧侶の食事に見る教え
テレビなどで修行僧の食事風景を目にすると、肉や魚が食卓に並ぶことはありません。
そこには、厳しい戒律が存在します。
五辛
香りの強いネギ科の植物を食すことは禁じられています。
これらは体温を上げ、修行の妨げとなるとされているためです。
具体的には、ネギ、ニラ、ニンニク、タマネギ、ラッキョウの五つを指します。
個人的にはニンニク入りのラーメンは魅力的です。
しかし、お寺でラーメンが出されることはありませんね😁
黙食
修行道場では特に、食事中に音を立てないことが徹底されます。
箸の音や咀嚼音さえも抑えるよう指導されます。
少しでも音を立てれば警策(木の棒)が飛んでくることもあります。
これは、食事に集中するための教えとされています。
咀嚼に意識を向けることで、自然と食事そのものと向き合うことができます。
また、音を立てないことで周囲も集中しやすい環境が作られます。
しかし、ご家庭での食事においてまで黙食を実践する必要はないと私は考えます。
静かで重苦しい雰囲気の中で食事をするよりも、家族団欒の中で楽しく食事を囲んでいただきたいと願っています。
実は、とあるお寺で「お供え物を捨てる」というお話を聞きました。
線香の香りや夏の暑さで傷みやすいという現実的な問題があるのは確かです。
匂いが付着したり、食中毒の心配があったりするのも理解できます。
気持ちは理解できますが、果たしてそれは正解なのでしょうか?
工夫次第で無駄にすることなくいただく方法はあります。
匂いが気になっても調理法でカバーできる場合もあるでしょう。
法要の直前に冷蔵庫から出してすぐにお供えし、終わったらすぐにしまうことで傷みを抑えられます
人の私利私欲で、命を無駄にしてはいけません。
共に命を大切にする心を育んでいきたいですね。
小僧合掌🙏