頭陀袋161 令和7年11月号

原田道一和尚に初めてお目にかかった雲龍寺
原田道一和尚に初めてお目にかかった雲龍寺

坂村真民を慕う道一和尚

不思議なご縁です。
私は原田道一和尚に初めてお目にかかったのはもうかなり以前、高山の曹洞宗の古刹、雲龍寺の先々代、亀山浩由和尚が晋山されるとのことでその晋山式にお詣りに出かけた時のことです。
新しい禅師様は須弥壇に上がられ、若い和尚さんが次々と前に出て禅問答が行われます。
何人かの和尚さんが問答された後、びっくりするほど背の高い和尚さんが前に出られ大声で質問されます。
これに対し、亀山和尚は淡々として答えられます。
禅問答とはすごくいいものだなあ。
感激して帰ったものです。
この、のっぽの和尚こそ高山の洞門の新鋭、原田道一和尚でした。

寺報「頭陀袋」との出会いと交流の始まり

その後、原田和尚の顔は存じていましたが、特に深いお付き合いはありませんでした。
あるとき意外にも和尚様から電話があり、ぜひあんたに逢いたい。とのこと。
実は本町の仏具屋さんであんたの寺報「頭陀袋」を拝見した。なかなか面白い。
いろいろ意見も聞きたい。
というお言葉に甘え、時々お寺の東堂寮(陰居部屋)に伺うようになりました。

詩を愛し、飛騨を愛するロマンチスト

和尚は大の読書家。
わけても仏教詩人の坂村真民氏や相田みつを氏との交流があったとのこと。
自らも詩を愛し、本も発行する。
飛騨を愛するロマンチストでした。

淡々とした生き方と痛快な最期

名門といわれるお寺に生まれ、傍目にはわからないご苦労もあったろうに、全く自分の苦労話をする気配はありませんでした。
わしはもう九十歳。
九十とは卒寿、もう卒業じゃ。あははは。
毎日を淡々と生きる。あの姿勢は最後まで変わりませんでした。
痛快和尚。
自分もあのような最期を迎えたいなあ。と思うこの頃です。

和尚の昭和、下岡本を語る

私の子供の頃は下岡本五十六戸と言って主に農業の家ばかりでした。
このわずかな家の間で縁談話が成立したり、親戚付き合いが行われていました。
どこそこの家は親戚だとか言われ、坂井のつる。
垣内の蔓、上島の蔓、小瀬の蔓といった様に分家や親戚縁者を大切に思う風習も残っていたように思います。
今や七百五十を上まわる大世帯となりました。

高齢者団体の解散と継続への努力

回状や伝達事項などパソコンで連絡しあう時代となりました。
町内のお年寄りの長寿会もお年寄りが増えたのだから長寿会も参加者が増えたらいいのに。
と思いきや、介護に通っているから、もうやめますとかあってとうとう解散に追い込まれてしまいました。
次に、壮年の会、和合会は段々ご高齢の方になり何とかして継続したいものと役員の皆さんも必死です。
こんな時代になったからこそ仲間同士の集まり、昭和を語る会、お互いに、労りあう会を維持してゆきたいものです。

脳?業こぼれ話

毎朝楽しみにしている連続テレビ小説『あんぱん』はとうとう終わりました。
やなせたかし夫妻のアンパンマンを育てた苦労話、(本人らは苦労と思っていない)終わればいい思い出ばかり。
暢さんのお姑さんからのお茶の伝授、興味持ちました。
お茶席のお花に芍薬の花、お床掛け軸はついに画面には出ませんでした(残念)。
昨年、おもわぬきっかけで芙蓉(ふよう)の木、槿(むくげ)の木の苗が手に入り畑の隅に植えたところ夏の終わりから九月にかけて芙蓉は大きな赤い花をつけました。
たった一日の短い花ですが命を燃やして咲く、可憐で儚いのが魅力です。
また、槿は茶花に適しており、芙蓉と同じ時期に咲きました。
この秋は追肥を忘れず、大切に育てたいと思います。

古田住職

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恩林寺の小僧さん
檀信徒の皆さんに『一休さん・小僧さん…』様々な愛称で呼ばれております、鳳雅禅士です。「一日一善」を心がけながら、日々精進していきます。感謝・合掌。