躾の重み(三つ子の魂)
しばらくぶりに蔵書の整理をしておりましたら懐かしい本(いっしょうけんめい生きましょう)が出てきました。
この本は昔、文部大臣をされた永井道雄さんのお母上が晩年執筆された、一日一言をまとめ講談社から発行されたもの。
以前は机の上において毎日の日付を開いて読んだものです。
『少しの時間で勉強になる。』
と当時はありがたく読ませて頂いたものですが、いつの間にかこの習慣も裁ち切れとなっておりました。
永井道雄さんの母親は永井次代さんと申され戦前の政治家永井柳太郎の妻としてまた敬虔なクリスチャンとして、明治の気骨を守り子息を育てあげられました。
また、画家の小倉 遊亀さんとも親交があり、ネアカな性格は誰からも愛されたようです。
確か、この本の中にお姑さんのことが書いてあり、お姑さんはまれにみる善人で毎朝の御経には大切な家族、一人一人の名をよんで仏のご加護を一心に拝んでおられた。
この姿は神々しくさえあった。と、述べておられます。
こうした環境そのものが躾であり三つ子の魂としてご子息方の教育につながつたことに違いありません。
近年、尊属殺人や誰でもよいから殺したかった、というような恐ろしいニュースが伝えられます。
今一度、躾について考える時期に来ていると思います。
今からでも遅くはありません。
いかがでしょうか。
昭和の和尚、下岡本を語る
昭和十七年、まだ私が生まれるもっと前の話ですが、戦争は一段と厳しい状況となり、高山でも各お寺は梵鐘・半鐘、仏具等を共出することとなり、別院に集められ纏めて戦争のために送り出されたようです。
下岡本では、富士踏切の手前に火の見櫓があり非常時にはここの半鐘を叩く事になっておりました。
たまたま、「この半鐘は鳴りが悪いからこの際、お寺の共出を機会に恩林寺の半鐘と交換して、この火の見櫓の半鐘を出そう。」と村の中で話がまとまり、恩林寺の半鐘は村に残ることとなりました。
終戦後、新しい半鐘ができ、昔からの恩林寺の半鐘は今にひきつがれています。
こうしたことも昔からの村内の皆さんの御支援とご縁のおかげです。
さて秋も深まりますと各家では、菜洗いが始まります。
家の近くの小川に張り板(反物の再生の時、反物に糊をする板)を渡して白菜、蕪、大根などを洗い、漬物を仕込みます。
蕪、白菜、などは丸漬、切漬け、など、大根は洗った後、何日か天日で乾燥させ少し、シナシナになってから米糠、色素、荒塩を調整し漬けこみます。
切漬けなどは真冬の寒い日に、氷を割って取り出し、ご飯に添えて食べたり、煮たくにして食べました。
そうそう、白菜のマル漬けなどワイワイ話をしているうちにどんぶりいっぱいペロリなんてこともありました。
小川にはフナとかウグイがおり、コメ揚げしょうけを持ち出し、魚とりをして叱られてばかりでした。
住職合掌