変な事に没頭しやすい恩林寺の小僧です。
一つに集中していると他のことが見えなくなりますよね。
そして、それらをやり遂げた後は達成感が生まれます。
しかし私は「燃え尽き症候群」になりがち…。
次の事に取り掛かるために時間を要してしまいます。
時々、退屈だなぁと感じることもありますが、皆さんはどうでしょうか?
退屈とは
やる事がない時、暇だと感じる事があると思います。
単調な仕事や刺激のない休日を「退屈」と言っていますよね。
現在は「暇を持て余すこと」の意味で使われていますが、実は仏教語なのです。
元々の意味は「精進する心を失っている姿」を指します。
仏道を歩む上で、必然的に苦しみは生まれてきます。
その苦しさに負け、仏教から心が退いてしまう姿を退屈というのです。
俗世間に揉まれ、悪いことも覚え…いつの間にか心が遠のいていませんか?
般若心経を伝えた玄奘三蔵は退屈が3つあると唱えました。
それを「三退屈」と呼ぶようになります。
広深退
智慧は広大深遠であると聞き、躊躇ってしまうことを広深退といいます。
仏教や悟りは、奥深く大きいものだと言われます。
すると、私には無理だと諦めてしまう人が出てくるのです。
ゴールが見えないと一歩踏み出すのが億劫になりますよね。
しかし、その一歩が精進するきっかけ、悟りへの近道となります。
仏教は難しいと決めつけてしまう前に、出来ることから始めてみるのはいかがでしょうか?
難修退
布施行など多くの修行が厳しく、実際に行うのが難しいと諦めてしまう事を難修退といいます。
私も座禅が嫌で仕方ありませんでした。
座っていると足が痛くなり、眠くなり、それこそ退屈になり…。
正しい心を持って行うのは難しいと感じました。
しかし、すぐに諦めていけません。日々是修行です。
嫌だと思った事を率先してやってみる。
それだけで難修退はクリアできると思います。
難証退
悟りを得ることが難しいと諦めてしまう事を難証退といいます。
言葉で明確に書かれているものはありません。
だからこそ証明するのも難しいものだと言われています。
禅宗には「不立文字」という教えがあるように、文字だけで全てを明かすことは出来ないのです。
そんな確証が無いものを得ようとしているので、難しいと感じるのは当然です。
しかし、今やるべき修行を実践していくことによって、いつかは悟りを得ることが出来るかもしれないのです。
錬磨
仏教では退屈を起こした時、対処法として自身の心を練り磨くこと、「錬磨」を伝えています。
退屈な状況への対処を練り、自分の心を磨く。
それを行なっていくにつれて、退屈が生まれなくなるのです。
既に悟りを得た仏さまがおられる。ということは自分にも可能性があるのです。
自分が仏道を目指した原点は何なのか、向かうべき方向はどこか、それらを見直しながら進んでいくことが大切になってきます。
まさに「初心忘れるべからず」ですね。
よく禅問答では「考える」と言わず「練る」と言います。
頭で考えるのではなく、身体全体を使って答えを練るのです。
すると答えが磨かれ、正答が見えてくるのです。
これこそまさに「錬磨」だと言えるでしょう。
余談ですが、私の光る頭は磨きすぎた訳ではありませんからね?
小僧合掌🙏