おふくろのおかげで
ご近所のおばさんが「この間の頭陀袋の原稿、よかったよ。また続きを書いてよ」と、ありがたいお言葉をくださいました。
しかし、次々と書けるほどの文才があるわけでもなく、だいたい勉強不足です。
どうしたものかと思案しましたが、戦後80年を生きてきた中で私の記憶に残っている「いい話」を少しお裾分けしたいと思います。
小学四年生の時のことです。
わが校は戦前建てられた国民学校で木造二階建て、風が吹くと倒れそうで裏側からつっかい棒がしてあり(つこ十八本と言われており)ました。
この校舎は新しく建て替えられ広々とした運動場に南向きの明るい教室で勉強できるようになりました。
担任の先生は今年、大学を出たばかりの新米先生で大学では理科系を専攻されたとのことでした。
若い先生なのに厳しかった。
ある日、今でいう道徳の時間に、こんな話をしてくれました。
先生はそんな話をしながら、ポロリと涙をこぼしました。
昭和の和尚、下岡本を語る
毎年、寒のころになると、昔を思い出します。
昔はもっと寒かったなあ。二月近くになると田んぼの雪も凍り付いて登校するにも、田圃の中を、学校まで直線距離に歩いて行きました。
(今考えると零下二十度ぐらいでしょうか?自分の吐く息が凍り付いて眉毛が上下くっつくこともしばしば。)
長靴の中は、田圃の中にある藁ネゴのすくべを敷きました(これがとても暖かい)。
学校では鋳物の縦型ストーブで薪は一日分一把と決まっておりました。
雪が解けると通学路は富士踏切から真光寺前の地蔵さまを通り、上島さんの裏から音楽の山下笛郎先生の裏を通ります。
毎日、先生の家からはピアノの音が流れハイカラ気分で家路に向かいます。
富士神社の前を通り岡村清水で水を飲んでから帰ります。
昭和三十年近くになりますと神様から我が家までの間に誘蛾灯が灯り、朝早く見に行くとオスカブトムシやカミキリムシなどが手に入りました。
いつの間にか道端に転がっていた小型飛行機の頭と思われる鉄の残骸はみられなくなりました。














みんな。よう聞け。今日は先生のお母さんについて話をする。
先生は小さいときお父さんが船乗りだったので大坂から東京まで船で荷物を運ぶ仕事をしていた。
ある台風の日、三重県沖で船が沈没してしまい、お父さんは死んでしまった。
日本は貧乏な時代だった
ので何にも保障などなかった。
お母さんは毎日、裁縫をして私たち兄弟を育ててくれた。
お母さんの思い出なんて格好いいものなんか何にもないが、夜中に目が覚めてトイレに行くとき、まだお母さんは裁縫をしていた。
大学に受かったとき新しい学生帽を買ってもらい、お母さんに見せたら涙をぽろぽろ流しながら、「よかったなあ。お父さんに、この姿を見せたかったなあ。」と言いました。
『よし、これからはお母さんが喜ぶような学校の先生になるぞ。』と思った。
おふくろのおかげで今がある。
みんなは毎日そうは思わんかもわからんが、お母さんは毎日、みんなのことを心配していてくれる。
お母さんを大切にせないかんぞ。