頭陀袋111 鉄眼禅師の一切経

頭陀袋 2021
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鉄眼禅師の一切経

鉄眼禅師とはどんな方か?
禅師は今から300年ほど前、肥後の国(熊本県)益城郡の生まれ13歳で出家、はじめ浄土真宗を学びましたが26歳の時、長崎興福寺に中国からむかえられた隠元禅師に参謁し、さらに隠元禅師の高弟、木庵禅師の弟子となります。
鉄眼禅師は、仏教国日本に一切経(大蔵経)の版木のないことを残念に思い、隠元禅師にその思いを話しますと、隠元禅師は明朝大蔵経を鉄眼に授けました。さらに、黄檗山内に寺地を与えられます。ここに蔵版、印刷の拠点である宝蔵院が誕生いたします。
その後十七年、幾多の苦難を超えて完成するわけですが、その経緯と人柄について、戦前は小学校の教科書にとりあげられ、欄外には、先生が子供たちに説明する項目まで設けられておりました。

禅師の活動の元となる強い決意の表れとして次のような逸話があります。
禅師は、一切経の版木を調達したり彫師、摺り師にかかる莫大な資金を必要とするため全国行脚を思い立ちます。
まず京都の三条大橋に立ちますと一人の侍がやってきました。彼は自身の思いを訴え喜捨をお願いしますが、全く相手にされません。最初に出逢った方から御縁ができないようでは大願は成就しないだろう。彼は必至で後を追い、ついに大津まで来てしまいました。
茶店で休んでいるお侍に、「何卒、御喜捨のほどを。」お侍は腹が立ったのか壱文銭を路上に投げだしました。「有難いご縁をいただきまして、謹んで頂戴いたします。」
それから禅師はほぼ予定の資金を集めるのですが、近畿地方を襲った洪水や飢饉に苦しむ人たちを見かねて、二度にわたってこれら救済のために此の資金を使い、その後三度目の募金が集まり、一切経を彫る版木の調達となりますが、これには吉野の桜の木が一番というので吉野山を管理する代官様にお願いに上がります。
代官は鉄眼禅師に逢うや否や「あなた様はあの時の…」
なんと昔、一切経開版のために喜捨を乞われた鉄眼禅師だったのです。
代官は溝口源左衛門信勝といい禅師との再会に感動し、「私の使命は吉野山の桜を守ることですが、その桜を生かすことも使命です。」と答え、溝口の必死の嘆願により幕府は吉野の桜の伐採を許可したのでした。こうして延宝六年、一切経の開版が行われ、後水尾法皇に進上されました。

禅師は活仏(生き仏)と慕われつつ、天和二年(一六八二年)三月、五十三歳で入寂されました。
此の資料を準備している中で(鉄眼禅師かな法語)というものが実在しており、これには鉄眼禅師が般若心経をわかりやすく庶民に解説しておられる貴重なものであることが解りました。
いずれ皆様に紹介できる日を楽しみにしております。
鉄眼禅師一切経の字体(明朝体)は現在使われている新聞の活字、パソコンの字体であること、四百字詰原稿用紙は黄檗文化の延長であることなど楽しい話ばかりです。
また黄檗山、宝蔵院ご住職、盛井幸道老師様から昭和の尋常小学校教科書(鉄眼の一切経)翻刻版を御印施賜りました。心より御礼申しあげます。

今月の言葉

古田住職
古田住職

あれも、これもと欲張っていると肝心なものを失っていく。

黄檗宗 明白寺様 日めくりより

古田住職
古田住職

中山かんのん 恩林寺 住職合掌

古田住職

皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。
「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。

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