頭陀袋131 令和5年5月号

観音菩薩像 仏師高田慈眼先生作
観音菩薩像 仏師高田慈眼先生作

仏師高田慈眼先生をたずねて

頭陀袋の観音様を訪ねて市内、郡部を訪れているうちに観音様を彫っている人とはどんな人なのだろう?という思いがずっと頭の隅にあり、今回、高山に在住の仏師、高田慈眼先生にお話を伺うことができました。 
高山市の近郊、牧ケ洞の工房は手入れの行き届いた庭の踏み石を踏んで玄関に至ります。
「高田慈眼佛處」という枯れた字の看板が一層緊張を誘います。

仏師、高田慈眼先生にお話を伺う

玄関を開けると先生はにこやかに迎えてくださいます。
二階の工房に上がると先ず目についたのは粘土で作った観音像、像には縦横に線が入っており、作品の各部分を正確に造形できる工夫と思われます。
粘土像の横には木曾檜の柾目を使った観音像が完成間近の状態ですらりと立っておられます。

工房の中央には禅宗様の仏壇が祀られており一層緊張しました。
こうした雰囲気の中で先生は自身の半生について語られました。(以下は大変失礼ながら私の聞き書きとさせて頂きます。)

私こと、高田慈眼は彫刻家とか仏師という仕事には何の関係もない在家の出身です。
子供の頃の記憶として残っているのは、ある日押し入れから一枚の絵ハガキが私の足元にぱらりと落ちてきたことです。
何気なく拾い上げてみると、法隆寺の観音さまが写っているものでした。
「すごいなあ。自分もこんな観音様を彫ってみたいなあ」
私は十五歳の時、飛騨の一刀彫り、二代目村山群鳳師に弟子入りしました。
「年期明けには七年かかるぞ。」と言われました。
その間まだ仏師になりたいとの思いは変わらず、ついに二十歳の時、単身京都に出かけ市役所に行き「私は仏師になりたいのですが、どなたか紹介頂けませんでしょうか。」と、頼みましたがよい結果にはなりませんでした。
そこで今度は奈良まで出かけ、仏師である太田古林先生や松久宗琳先生とのご縁ができ、指導を仰ぐこととなりました。
仏像を彫るといっても昔から五つの決まりがあり如来、天部、菩薩、明王、祖師像があり、それに作者はその像のいわれ、どうした縁でこの仕事をするのか、像のバランス、均整、どうした場所に安置されるのか。
それになんでも聞き取る優しさ、お慈悲の心が相手に伝わることを表現しなければなりません。
それに発願者の意図、どの様な目的でこの像を作るのかをよく聞いて作業にかからねばなりません。
私は仕事上いろいろな方々とご縁を結んでいただき、中でも東大寺清水公照長老にかわいがられ、大仏殿の屋根葺き替えには屋根の上まで上がらせていただいたり恐れ多くも大仏様の頭上に上がらせていただいたこともあります、
また、西宮、海清寺堂頭、春見文勝老師に依頼され「南天棒(明治の禅匠)と、わしの像を作ってほしい。わしの骨格も見てもらいたいから一緒に風呂に入らんか。」と言われてびっくりしたこともあります。
高山では東山善応寺の中井藤岳和尚のご協力で仏像教室をはじめ、三十人余りの仲間ができたこともあります。
また、放火で全焼したお寺の再建にあたりご本尊の製作を依頼されたり、九州の夢のお告げと言われる方からの仕事、あるいはある宗教のご本尊など、私はたくさんの方々からご縁を結んで頂き、ありがたいことだと感謝しております。
世の中に、ご縁、霊力、霊能、夢、といった目に見えないものを否定するわけにはまいりません。

仏師高田慈眼先生の言葉

先生の貴重な体験談を伺い、お礼を申し上げて工房を出ると、もう夕日が落ちかけておりました。
今日は、話に出なかったけれど、昔、高山で期間誌在家仏教の記事の中に高田先生のものがあったなあ。などと思い出しながらお暇いたしました。
先生は仏師という仕事を通じて沢山の人たちに仏の教えを広められ、作品が仏としておがまれながら後の時代まで引き継がれるのだなあと敬服した次第です。
観音経の一節を借りれば
応以仏師身おういぶっししん得度者とくどしゃ即現仏師身そくげんぶっししん爾為説法にいせっぽう
『仏師は仏師としてこの身そのまま仏の教えを伝えて下さいます』となります。

古田住職

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皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。