頭陀袋129 令和5年3月号

かんのんさま(続)

飛騨三十三観音第二番にあたる相応院の観音様を訪ねてまいりました。

相応院

このお寺は、秋の高山祭、桜山八幡宮の別当、長久寺が明治の廃仏政策により廃寺になったのを、時の神職と長久寺住職を兼務していた桜山識雄和尚が、長久寺の再興を図ろうとして奔走しました。
しかし、元の長久寺を名乗ることは許されませんでした。
そこで、高野山の認可を得て、高山城主の金森公の菩提所であった高野山の子院(相応院)が江戸時代焼失したままになっていたので、再び高山において『相応院』を名乗ることとなりました。
明治二十四年堂宇を再建し、高野山・相応院から什物を引き継いでいた高野山・不動院より金森二代、可重公より寄進の弥陀三尊などを高山相応院に下附されるといったご縁が重なりました。
高野山不動院は今も飛騨の人たちの宿院とされ永代祠堂(永代経)や納骨の窓口となっており、旧、高野山相応院の過去帳を引き継いでおります。
高山相応院はこうした桜山和尚の発願が実を結び長久寺伝来の不動明王や聖観世音菩薩、弘法大師、歓喜天などたくさんの仏像を今に伝えることができました。
聖観世音菩薩は本堂右側の祭壇の厨子に入っておられ、長い歴史を感ずるお姿であります。

弘法山

お寺の裏山(弘法山)には大悲閣、弘法堂の二棟のお堂があり、西国三十三観音、弘法大師の修行像がお祀りしてあり、この山上からは高山の町が一望できます。

大悲閣には桜山八幡宮、桜雲山相応院の桜にちなむ旧長久寺の大桜の切り株が残されており、素晴らしいものです。この寺は桜山和尚より六代目とのことでし
たが、先代の小林清孝和尚は永年、社会福祉法人慈光園(現やまゆり学園)に奉職。園長先生の愛称で親しまれ、円空仏研究の第一人者でありました。

お詫び

前号(頭陀袋128号)にて版画家「守 洞春」と記載するところ、誤って版画家「森 洞春」と掲載してしまいました。
この度の誤記によりご迷惑をお掛けしました方々に、深くお詫び申し上げ、訂正させて頂きます 。

今月の言葉

ご先祖の恩を忘れるなよ。
ご恩返しはとてもとても出来るものではない。

関山禅師さま

古田住職

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。