頭陀袋086 令和元年8月号

開梛(魚梆)と玉鱗のはなし

頭陀袋85号を見た信者さんから
「生飯(サバ)台の話、良かったね。と言うより、昔、萬福寺へ行ったことが思い出されてねえ。あの回廊に釣ってある、でかい魚の写真、懐かしかったなあ。あれ、なんていうんだったかなあ。」
「あれは、開梛(かいぱん)っていうんやさ。まあ木魚の原型というかな。」
そこで半かじりの解説を一つ。 開梛は日常の行事や儀式の時刻を知らせる法器で、学校ならチャイムといったとこかな。 時の流れは再び還らず。一期一会のものだから、魚、そのものの伸びたままの姿になっています。
当番の雲水(修行僧)さんが行事の二時間前から、三十分ごとに開梛の前で合掌し、太い六尺棒を力いっぱい振り上げて腹を打ち、打ち終わると再び合掌して棒を収めます。 開梛の魚は必ず玉をくわえていますが、これは玉を食べようとしているのではなく、吐き出そうとしているのです。この玉(煩悩珠)は三毒の塊。三毒とは下記の通りです。
●貧(とん)むさぼり ●瞋(じん)いかり ●痴( ち )ぐち
この三毒を浄化するために、開梆を木槌で叩き、腹から煩悩を吐き出させると言います。
玉鱗はふつう木魚と呼ばれるもので、昔から勤行や食事、座禅などに使われますが、そのいわれは、昔、インドに師僧に背いた破戒僧がおり、自分の罪科によって、畜生道に堕ち、魚身に変じて背中に大木が生えて苦しんでいた。 あるとき、師僧が船に乗って、海に出たとき逆恨みした魚は、船を転覆させようとした。 これを見た師僧は大変憐れみ畜生道に堕ちた因果を解き聞かせてさらに深く戒めたので、魚はついに自分の愚かさを認め懺悔して 「願わくは背中の大木を伐って法器を作り、その功徳をもって、わたくしを救ってください。」 師僧はこの願いを聞きいれ、木魚を考案して法器とし、その功徳により破戒の弟子を畜生道の苦しみから救った。と言われています。
丸い木魚、これは頭に尾ひれを接し丸くし、背中の部分を打つのですが円の周囲は、何回まわっても、はじめもなければ、終りもない。いとも簡単な摂理を永久とか、久遠と言いますが、仏教ではこれを霊魂不滅の法器とし、善因善果・悪因悪果の基本倫理を表したものです。 魚は眠っている時も目を閉じないことから仏道の修行者は寸時も油断せず、持戒精進しなければならない。という戒めもあり、また木魚の手前、つなぎ目には丸い玉が彫り込んであり、意味は、開梛と同じと思われます。

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。