頭陀袋107 令和3年5月号

袖振り合うも多少の縁

みえぬところで手をつなぐつくしんぼ

無着成恭先生(山形県のお寺の和尚さん)が小学校の先生をしていた時、子供たちと、つくしを摘みに行きました。
その時、子供たちは「みんな繋がっているよ。」と叫んだのです。
大人はつくしを摘むことに熱中していたのですが、子供たちはつくしの根っこはどこまでつづいているんだろう、と堀りはじめ、つくしの根っこは隣のつくし、またその隣のつくしにもつながっているのを発見して歓声を上げたのでした。

この句はその時のものなのですが、
手をつないでいるのはつくしんぼだけなのだろうか?
竹の子は?
フキノトウは
どうだろうか?
無着先生は著書に書いておられます。

また、雑草学の稲垣栄洋さんは、つくしんぼについてこんなことを書いておられます。
「つくしは誰の子、スギナの子」と言われるようにつくしとスギナは同じ植物です。
ただし、つくしはスギナの子供ではなく、スギナはシダ植物なので胞子で増えるのであるがつくしはその胞子を作る胞子茎であり、普通の植物であれば花にあたります。

見えないところで手をつないでいるつくしの根は地中深く張り巡らされており、畑に生えたつくしはいくらとっても、あちこちから芽を出してきます。
かつて原爆が投下された広島で、緑がよみがえるまでには五十年はかかるだろうといわれた死の大地に真っ先に芽吹いたのはこのつくしだったのです。
見渡す限り焼け野原になった広島の町で芽吹いたつくしを見て、広島の人たちはどれだけ勇気付けられたでしょう。

道を歩いていて、ただ袖が触れ合うというのは、ほんの小さなきっかけでも、決して偶然のことでなく深いご縁の必然であるといえます。

いわば見えぬところで手をつなぎ合っているつくしのようなものである。と、言えるでしょう。
いい人に出会えて人は人になる。という句があるそうですが、これは人生で出会ったすべての人に言えることであって、いわば私がわたしになるためのかけがえのない「他生の縁」であった。と言えるかもしれません。

「閑」

お寺の前の掲示板、この一字を大きく書きました。
コロナ禍だから、みんな自粛、これでいいのか?こんな時こそ何か新しいことを。と考える人も多いと思います。
与えられた静かな時間、「閑」しずかにに座ってみましょう。

古川町の斎藤弘善様から、コロナに負けるな。と手作りのマスク五十枚をご寄贈くださいました。お参りの方、御近隣の方におすそ分けいたしました。
私のミニ禅のお役にたちましたら嬉しいです。

今月の言葉

自らを律する厳しさがないと物事の判断が甘くなる。

国会中継などを見ていると、ふとこんな言葉が頭をよぎる。
他人の誤りを自分に置き換えて考えてみよう。

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古田住職
皆さん、こんにちは。住職の古田正彦といいます。 私は「お寺に行こう 和尚さんと友達になろう」をキャッチフレーズに進めています。 小さなきっかけでも仏様と結ばれることを喜びとしています。