一休さんの遺言
一休さんの逸話の中に遺言の話があります。
一休さんはなくなるときに弟子たちにが、あまりにも、一休さん亡き後を不安がり悲しむので、一通の封書を弟子たちに残しました。
「弟子たちよ、私が居なくなるからと言ってそんなに落胆するものではない。もしもこの先、本当に困ったことが起きたなら、この封書をあけるがよい。」
と、いい残しお亡くなりになりました。その後、一休さんのお寺である大徳寺において存亡の危機に当たるような大問題が起こり、弟子たちは一休さんの遺言を開封しようという事になり、皆で大法要を行い恭しくこの遺言状を開いてみるとそこにはなんと、心配するな。なんとかなる。と書いてありました。とたんに弟子たちは大笑いのうちに落ち着きと、勇気と明るさを取り戻し、難しい大問題を解決した。と言う話です。緊張しすぎや、不安感、心配で心にゆとりがなければよい答えも勇気もわいてきません。 [大丈夫、心配するな。何とかなる。」という楽観主義にささえられた積極性を心に常駐させる工夫が、成功、健康、愛情などを手にする黄金の鍵であることは間違いないようです。
小坊主だった一休さんは大人たちが次々突きつけてくる難問題を少しも騒がず、トンチですいすい切り抜けます。こうしたことは私たちが、昔、漫画で見た通りのようです。長じていろいろな修行を積んで、あまり厳し こだわらない、ありのままをありのままに られる、立派な和尚さんになられ、今から 百年も前に当時としては異例の八十八歳ま 長生きをされました。楽々とした気分で厄 な問題を解決し、トンチを終生発揮し続け といわれております。
一休宗純禅師とは
出生は京都、南北朝、室町時代初めの僧、北朝、後小松天皇の落胤といわれる。母は南朝側藤原氏の高官の娘。
わけあって宮中を離れ民間に入って一生を終わった。母は一休を政争に巻き込まれないよう安国寺に入門させた。
早くから詩才に優れ注目を浴びた。十七歳で謙翁和尚の弟子となり戒名を一休と授かる。その後大徳寺華箏宗曇の弟子となる。応永二十七年、カラスの鳴き声を聞いて大悟したといわれる。
文明六年大徳寺住職に任命されるが寺には住まず寺の再興に勤める。戦禍で荒れ果てた妙勝寺を再興し,酬恩庵と改め、ここに住した(のち、この寺を一休寺と呼ばれるようになった)本願寺の蓮如上人との親交もあり、天皇や、民衆から厚い帰依を受け、八十八歳の天寿を全うしました。
恩林寺のお施餓鬼について
お施餓鬼は六親眷属七世の父母、わたしたちにかかわるあらゆる御縁の方たちのご冥福を祈り、水子、家畜、ペットに至るまで亡者の食べ物を供養する法要であります。配役の和尚さんがたくさん随喜されますので黄檗宗十八教区(岐阜県内の寺院)のお寺では、雨安居の終わる六月の終わりからお盆の終わる九月初めころまで、各お寺を 住職様方が順に法要を務めてくださいます。
まず最初は、飛騨高山・恩林寺ということで、今年は六月二十六日 (日)に、予定していただきました。詳しいご案内は、近日中に差し上げたいと考えております。
住職合掌