あるご家庭に伺ったら、お経のあとにこんな話が出ました。

信徒さん
おっ様。わしらもこの年になるとそろそろお迎えの準備もせんと、もう手遅れになると困るで、今日はひとつ、極楽の話をしてくれんかな。

古田住職
そうですな。わしも極楽というところへは、行ってみた事もないし見たこともないのでな。
しかし、私ら黄檗宗の教義の中に、唯心の浄土、己心の弥陀という言葉があります。この世を浄土に、心は阿弥陀仏。という教えです。
死後の世界はいろいろ取りざたされていますが、いまだかつて生前に確かめた人はいません。私も知らないのでいい加減なことをいうわけにはいきません。死んだあとのことよりもむしろこの世のことを話したほうがわかりやすいかもしれません。
地獄も極楽も、この世にありで、早い話が怒りの心が地獄で、喜びの心が極楽かもしれません。
『腹が立ったら鏡を出して顔を見よ。鬼の顔がタダで見られる。』
わざわざ地獄に行かなくてもこの世において鏡一つあればいつでも鬼に出会うことができます。極楽とは幸せのことですが、幸せとは自分の心の中に自分で作るものであり、普段より感謝の念をもち毎日楽しんで暮らせるなら、これこそ極楽そのものです。しかし、はなしとしてはよくわかるが、なかなかそうはいきません。
腹を立てたり、愚痴を言ったり手に入らないものをほしがったりして、迷いや悩みが絶えません。つまりは、毎日そのものが地獄暮らしのようなものです。そこで、ぜひこのようなことから離れて毎日極楽暮らしがしたいものです。
実は、地獄も極楽も紙一重で、その人の心の持ちようで地獄にも極楽にもなるものではないでしょうか。
こうしたことに気付くことが悟りというものでないでしょうか。
と、えらそうな話をした次第です。

古田住職
中山かんのん 恩林寺 住職合掌

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