帰依・帰命・帰敬
南無阿弥陀仏、南無釈迦牟尼佛、南無妙法蓮華経などの最初の部分「南無」はインド の言葉でナマスを音写したもので漢訳すると「帰命」になります。
意味は「帰依」と同じといえましょう。
帰依とは『優れたものに帰順し、寄りすがること』だそうです。
辞書には帰は帰投, 依は折伏のこと、すなわち絶対の帰順を意味する』ともありました。
そんな説明ではわからなくなってしまいますね。
私は『あなたを信じてお任せしますのでお導きのほ どよろしくお願いします。』ということだと 思っております。
南無は帰依と同じですから仏法僧の三宝には、南無をつける代わりに帰依をつけても同じです。
つまり、南無仏でも帰依仏でも同じ、南無法でも帰依法でも同じです。
南無帰依仏というのは同意語をダブらせることにより意味を強める効果を狙った表現といえましょう。
ところで 優れた人に帰依し敬礼することを帰敬といいます。
「帰敬偈」は経典の冒頭にあって、仏、菩薩に対し帰依敬礼を示す句ですし、帰敬式といえば在俗の男女が、仏に帰依して仏弟子になる儀式を言いますね。
坊さんになるのには剃髪、受戒をいたしますが浄土真宗では髪を剃ったり、戒を受けたりするだけなので受戒と言わず帰敬式というようになりました。
いずれにしても仏をよりどころとし、仏の命に生き、仏を敬ってやまないのが私たち仏教徒です。 帰依,帰命,帰敬のどれもが{帰}がついているのは「仏様の元に帰る。」という意味がふくまれているからではないでしょうか?
仏子たる私たちはこの世に生きているうち から仏の家を我が家とし、仏の元から「いってきます。」「ただいま」を繰り返す日々を送ることにいたしましょう。
反省
先日、ある雑誌を見ていたら、博多の仙崖和尚が書いておられる言葉が紹介されておりました。
なるほどそのとおり。いちいち思い当たることばかり。少し反省いたしました。
その言葉を紹介いたしましょう。
聴きたがる。淋しがる。でしゃばりたがる。 世話焼きたがる。くどくなる。
気短になる。愚痴になる。心がひがむ。 欲深くなる。またしても同じ話になる。 孫をほめる。達者自慢に人は嫌がる。 仙崖
住職合掌